末日聖徒イエスキリスト教会 リアホナ2013年8月号  真の成長のために⑪

    真の成長のために⑪

      七十人 マイケル・T・リングウッド長老改心の唯一の方法

    社交的改宗から霊的改心へ

    ─社交的改宗(social conversion)という言葉があります。キリスト教の文化的背景のない日本では,多くの人が,社交的な方法で最初に教会を知ります。例えば,自分が教会に改宗したのはすばらしい宣教師がいたからだ,と言う人は多いでしょう。社交的改宗は教会への入り口の一つです。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,新会員に必要な3つの要素※1 の一つとして友人を挙げました。しかし,愛する宣教師が転任し,一般の会員の中に友人がいない場合,教会とのつながりをなくす人が多くいます。また,家族と一緒に教会に集い,教会の友達と一緒に成長する聖約の子供も,教会とのつながりの中に社交的な要素が大きいと思います。

    ここ数年で,大勢の方が教会員となりました。しかし,その多くが単なる社交的改宗であったために教会に来なくなっています。

    また残念なことに,(人間関係で)気持ちを害されて教会に来なくなった人もいます。完全な教会員は一人もいません。指導者としてわたしたちが善かれと思ってやっても,それで傷つく人がいます。わたし自身,地域会長という責任において行ったことで,人を傷つけることがあるのは疑いのないことです。もちろん意図的にするわけではないのですが,わたしは完全ではないので,そういうことが起こるのです。

    社交的な改宗だけでは,確固として堅固な信仰を持ち続けることができません。しかし,霊的に改心している人は,教会員に帰依(改宗)しているのではないのです。天の御父と救い主の福音に帰依(改心)しているのです。そのような人にとって,ある一人の教会員と福音とを分けて考えることは容易なことです。一方,ただ社交的に改宗しただけの人は,霊的な改心がなかなかできません。

    ─最初に社交的改宗をして教会員となった人が,成長して霊的改心を遂げるのを,どのように助けたらよいですか。

    聖文が改心の出発点

    これはすべての人に当てはまる答えです。教会で成長する子供を助ける方法も,教会の独身会員を助ける方法も同じです。

    20歳の人が改宗したとします。その人は自分の家で福音に従った生活をする必要があります。毎日祈り,毎日聖文を研究する必要があります。教会に来ることが必要です。そして,神殿(参入)の備えをするのです。そうすることがすなわち養いです。ヒンクレー大管長が言った,だれでも神の善い言葉で養われる必要がある,とはこういう意味です。つまり友達,責任,そして神の善い言葉による養い,この3つすべてが必要であるとヒンクレー大管長は言いました。※1

    教会員となった人が,神の善い言葉による養いを得ることを人に依存していたら,問題が生じてきます。やがて,自分の家でそれを行うことができるようにならなければなりません。聖文を研究し,心に御霊を招くようにしなければなりません。そしてもし,彼らが宣教師から預言者と聖文の言葉を信じるようにと教えられて,毎日自分自身を養っているのなら,ヒラマン書第15章にあるように,確固として堅固でいることがもっと容易にできるようになります。

    さらに,教会からも助けを得ることができます。いつ,だれが教会に来ても,霊的な経験ができるよう,わたしたちは十分に備えていたいものです。日曜日の集会で最も霊的な時間は聖餐を受けるときです。その集会を聖餐会と呼ぶのはそのためです。わたしたちは聖餐を頂くためにその集会に出席します。聖餐の間に御霊を感じるよう備えるのは個人の責任です。聖餐会が終わって,「あれは良い話ではなかった。御霊を感じなかった」と言うことは間違っています。話は後の段階です。だれかが話をするために立ち上がる前には,すでに御霊を感じていたいものです。信仰を増し,聖餐の間に悔い改める必要のあることをより深く理解できれば,聖餐会で教えを受け,話を聞くときに御霊を感じることがもっとよくできるでしょう。

    しかしながら,神の善い言葉からの養いは最初に個人が家庭で受けるものです。2番目に教会から受けます。また,家族とともにいる人でも独身の人でも,自分の家で日々養いを受けるなら,確固として堅固である確率はとても高くなります。

    家族で一緒に食事を

    ─(先月号で)リングウッド会長は,「今すぐまず親が(改心の5ステップを)始めて,絶対にあきらめないように」と言われました。子供を正しい方向に戻し,助けたいと願う親に対して,毎日の祈りと毎日の聖文研究のほか,何を今すぐ始めるよう勧めますか。

    家庭の夕べです。家族のしきたりです。しきたりは皆で何かを一緒にする機会となります。わたしたちは,毎日食事を一緒に食べることの大切さを教えられています。日本の忙しい生活では,これはかなり難しいことかもしれません。夕食を一緒に食べるのが従来の方法でしたが,日本では朝食を一緒に食べる方がやりやすいかもしれません。1日に1度,家族が一緒にテーブルに着き,話をするのはとてもすばらしいことです。食事の席ではそれが比較的簡単にできます。どんな人でも食べなければなりませんからね。

    身体の食事と霊の食事

    (タッド・R・)カリスター長老がこの春,日本に来たときに教えたのもこのことでした。「肉体的な食事を摂らないことなど考えられません」と言ったのです。どんなに忙しくても,食事の時間は必ず取ります。しかし,忙しさを口実に霊的な食事をしないことがよくあります。肉体を健康に保つために食事をします。睡眠が必要です。運動も必要です。同様に,霊的な健康を得るには霊的な食事が必要です。それは,聖文の研究,祈り,教会への出席,神殿への参入です。肉体的・霊的な食事のどちらも大切です。

    しかし,家族を一つにするものなら何でもよいのです。きずなを強める,何かちょっとしたことをしてください。一緒に散歩するとか,公園に行って,ただ一緒にいることを楽しんでください。そのような環境の中で,親は子供にしっかり教える機会を得ることができます。子供たちが小さいうちはまだ簡単ですね。成長するにつれて難しくなっていきます。子供たちに友達ができて,色々な活動にかかわるようになります。そうすると,霊的な食事を取れないほど忙しくなります。誘惑に耐える強さをなくしてしまうような危険な状態に陥るまではあっという間かもしれません。

    ─日本では,父親は仕事が忙しくて家族と過ごすことのできない家庭も多くあります。理想の家庭の姿からかけ離れてしまったと感じている家族が,どうしたら家族のしきたりを作り上げることができるでしょうか。

    強く願うこと

    それをしたいという思いがどれほど強いかがポイントです。皆朝早く起きるのをいとわないほど強く願っているのでしょうか。家族の願いが強ければ,食事と祈りと聖文の研究を全部一度にするかもしれませんし,あるいは,夜寝る前にすることもできるでしょう。時には,両親のどちらかが,急な用事や出張などの理由で参加できないこともあるでしょう。そんなときは,その人がいないまま行うこともあるでしょうし,(電話やインターネットなどの)テクノロジーを利用して参加することもできます。何とかやっていく方法は常にあるものです。大事なことは,それをしたい気持ちがどれだけあるかということです。長期的に見て,永遠の見地から見て,わたしにとってこれ以上に大切なものはありません。退職する日がいつか来ます。子供たちが独立して出て行く日がいつか来ます。それを待っていたのでは遅すぎることになります。ですから,創造的になってください。

    最善の方法ではありませんが,それでも有効な方法があります。それは皆が各自で個人的に(聖文研究を)行うという方法です。そして,夜床に就く前か別の時間に,短い時間でも家族で集まって祈り,各自で聖文を研究して学んだことを分かち合うのです。そうすると,子供たちが自分で勉強していることを確認できます。学んだことをあとで分かち合うように言われると分かっていれば,子供たちは聖文を丹念に読むようになるでしょう。一緒にする方がいいのですが,一緒にできなくても皆がしているかどうか確認することができるので,これも良い方法です。

    個人が改心する唯一の方法

    ─家族のしきたり,家庭での聖文学習の定着は,家族の願いの強さにかかっていると言われました。しかし,子供たちがキリストの慈愛と贖いを理解し,キリストに従いたいと思わなければ,彼らの中にその願いは生まれて来ないのではないでしょうか。

    この問題の唯一の答えは,研究することです。贖いについて教えている預言者の言葉を積極的に読まなければ,贖いを知ることは絶対にできません。贖いについて学ぶためのクラスはありません。祈り,聖文を研究して一人一人が個人で分かるように努力することです。

    この5ステップ(3ページ参照)に従って行うことが贖いを知るための唯一の方法です。プロセス(過程)は同じなのです。ですから,わたしたちは皆さんにこの方法を実行するよう求めているのです。これは改心に至るステップです。そしてそれは教会に行ってレッスンに出席したりお話を聞いたりすることによって補強されるのです。

    わたしは,現代の預言者の話をよく聞くことで贖いについてずいぶん学びました。しかし,再度申し上げますが,学ぶために預言者が書いた言葉を読む必要があります。贖いについて書かれた本はたくさんあります。ですから1冊でも買って読んでください。実際,わたしも今読んでいる本があります。しかし,その本も聖文にはかないません。そうした本は,著者が聖文で得た教えを読者のためにまとめたものです。それはそれで意味がありますし,聖文研究の補足として良い本を利用することは良いのですが,それはあくまでも「補足」するものであって,聖文の代わりにはなりません。わたしたちが聖文を好きな理由はそこにあります。聖文にすべての答えがあります。個人が改心するための唯一の方法です。

    そしてそれは幼いときから始まります。ある程度の年齢に達してから教会に入った人は,その時点で始めてください。教会員となった時点から, (聖文を)研究し,祈り,御霊を求め続ける必要があります。

    教会員となるほとんどの人は証を持っていると思います。しかし,真に改心している人はほとんどいません。でもそれでいいのです。証は改心への第一歩です。わたしたちが望んでいることは,証を得てバプテスマを受けたら,次に改心することです。

    そのことは伝道活動のガイドに明記されており,「最後まで堪え忍ぶ」※2 という言葉で表されています。しかし,最後まで堪え忍ぶ決意をするには,改心が必要です。それが霊的改心です。(ヒラマン15:8に記されているように)生涯最後の日まで「確固として堅固である」ということです。

    ─青少年の多くが証を,改心の第一歩ではなく,到達点だと考えているように思います。証と改心がどのように関係し合っているのか説明してください。

    皆さんの心は今も変化しています

    そうですね,別の性質の者になること,これが改心を最も的確に説明する言葉です。一方,証とは,感じ,経験するものです。聖霊がわたしたちに証しているのです。改心すると,わたしたちはもっと救い主に似た者となります。あるいは,もっと救い主に似た者になりたいと決意します。それは,行いに変化をもたらします。証はその始まりです。証を得た人は,その行いを変えようとします。お酒をやめます。たばこをやめます。教会に来るようになります。それまでしていなかったことをするようになります。そうして改心の入り口に立ちます。

    その後は,その道を歩み続ける必要があります。アルマ書第5章26節でアルマは,心の変化を経験し,贖いをもたらす愛の歌を歌おうと感じたことがあれば,今でもそのように感じているか,と尋ねています。これはつまり,皆さんは証を得たことがありますか,今も証を持っていますか,と聞いているわけです。証を持っていると感じているのであれば,皆さんは改心への道を歩んでいます。皆さんの心は今も変化しています。心が変化するに従って,わたしたちはもっと救い主のようになります。それが改心です。それが,確固として堅固になることです。

    最後まで堪え忍ぶ,とは

    ─改心とは,何度も重ねて行われるプロセス(過程)だということですね。……

    改心とは,わたしたちが目的を果たすまで終わることのないプロセスです。

    ポイントは,人生の最後を迎えたときに「何年も前に教えられたことを今でも行っています」と言えることです。最後まで堪え忍ぶことを「最後まで待つ」ということだと誤解してほしくありません。人生の終わりに天の御父がお知りになりたいのは,わたしたちが何回モルモン書を読んだかより,今もまだ読んでいるかどうかだと思います。真に改心している人ならこのプロセスをやめることはありません。

    「モルモン書を10回読んだので,もう読む必要はありません」「聖書は読んだので,もう読まなくてもいいです」と言うことはできません。改心するには,絶え間なく霊的な養いを続けなければなりません。救い主が十字架におかかりになる前に言われた言葉にわたしは,大きな慰めを感じます。主は先任使徒のペテロにこう言われました。「あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい。」(訳注─この聖句の「立ち直る」に当る英語 “convert”の文字どおりの意味は「改心する」である)主は使徒ペテロに対して,イエスは神の子であると証したまさにその人物に対してそうおっしゃったのです。そして救い主は「ペテロよ,サタンはあなたを得ることを願っている」と警告されました。つまり,常に目を覚まして祈っていなさいと言われ,さらに,あなたが立ち直った(改心した)ときには,兄弟たちを力づけてやりなさい,と言われたのです。

    この聖句は,改心がプロセスであることを教えてくれます。失敗すること(failing)と失格者(failure)とでは,大きな違いがあります。ただ失敗しただけなら,つまり,間違いを犯しただけなら,立ち直る(改心する)ことができます。失格者は倒れたままです。倒れたままあきらめるのです。

    ですから,のんびりくつろいでいることはできません。ペテロでさえそうなのだとすれば,わたしにはなおさらそうです。

    ─ありがとうございました。◆