リアホナ2012年10月号  福祉のABC 24

    福祉のABC 24

               (地域福祉部)

    利己心を捨てる

    わたしたちは人生で様々な選択に直面します。時間の使い方,お金の使い道,またそのお金を稼ぐ方法,どの才能や賜物を伸ばすのかまたは顧みないでおくのか,霊的な事柄とこの世的な事柄のどちらを求めるかなどを選択します。このような選択をする際には,人はどこから来たのか,なぜここにいて,どこへ向かっているのかをよく理解していることが必要です。この理解がなければ,わたしたちは自分の必要や望み,欲求を重要視し,あてもなくさまようこともあるでしょう。自分自身に注目し,個人の利益を求め,世俗的な楽しみにふける人は,時折「生まれながらの人」と言われます。

    死すべき世を去る前に,ベニヤミン王は民に教えを説き,警告してこう語りました。「生まれながらの人は神の敵であり,アダムの堕落以来そうであって,今後もそうである。」(モーサヤ3:19)この美しい世界,わたしたちの生命,選択の自由,賜物や才能,霊的な祝福,この世的な祝福が,天の御父から授かったものであることを認めて感謝することを忘れたり怠ったりするのは,わたしたちが生まれながらの人であるしるしかもしれません。周りにいる人々の必要に気づかなかったり,助けを必要としている人を見かけたのに手を差し伸べなかったりするのも,一つのしるしでしょう。

    モルモン書に登場する偉大な教師の一人である息子アルマは,忌まわしい罪を犯してしまった息子コリアントンに勧告を与えたときに,ある別の表現を用いました。アルマはこう語りました。「わが子よ,悔い改めて自分の罪を捨て,これからはもう自分の目の欲を追うことなく,これらのことをすべて断つようにしてほしい。そうしなければ,決して神の王国を受け継ぐことができないからである。おお,このことを覚えて,これらのことを必ず断つようにしなさい。」(アルマ39 :9 )この世的な快楽にふけり,地上に神の王国を築くより自分の帝国を築こうとばかりすることも,わたしたちの内にある,生まれながらの人を示すしるしでしょう。

    アルマが語った,断つという行為は,重要で必要不可欠なことです。自立するためには,わたしたちは利己心を捨てなくてはなりません。生活の糧を得るため勤勉に働き,什分の一と献金を納め,毎月少しのお金を貯蓄し,収入以下に出費を抑えるのは,利己心を捨て,より高い大義のために,生まれながらの人を捨てている証拠です。より良いもののために良いものを犠牲にするのも,利己心を捨てる一つの方法です。時間やお金,労力,神から授かった才能あるいは天から与えられた賜物や祝福を使うことについても,神の王国を築きたいという望みと結びついた絶え間ない感謝の叫びが,完全に利己心を捨てるために必要です。これは,肉体的,情緒的,この世的,霊的,社会的な事柄などについて言えるでしょう。

    ベニヤミン王は偉大な教師であり,わたしたちが生まれながらの人を捨て,利己心を捨てる方法を示しました。そして,「人は,聖なる御霊の勧めに従い,主なるキリストの贖罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒となり,子供のように従順で,柔和で,謙遜で,忍耐強く,愛にあふれた者となり,子供が父に従うように,主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従〔うように〕」と言いました (モーサヤ3:19)。

    イエス・キリストもこれらについてお教えになりました。イエスは, 「あなたがたは,これらのことを断って自分の十字架を負う方が,地獄に投げ込まれるよりもよいからである」(3ニーファイ12:30)とおっしゃいました。さらに前の時期に,救い主は別の場所でこう言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,日々自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。」(ルカ9:23)ここで使われている「日々」という言葉は,自分自身の状態を確かめ,さらに再度見直す必要性があることを強調しています。主は,人がいとも簡単に道を外れ,挫折してしまうことを御存じだったからです。

    トーマス・S・モンソン大管長は,自らの利己心を捨て,生まれながらの人を捨てるというすばらしい模範を示しています。夫を亡くした孤独な女性の世話をし,外国から引っ越して来る家族に関心を寄せ,遠方で軍務に就いている兵士たちに手紙を書き,病人を訪問し祝福を授け,貧しく助けが必要な人々を援助し,福音の真理を教えるために総大会で物語を分かち合うことなどを通して,主がモンソン大管長に行わせようとなさる事柄のために,モンソン大管長は,常に自分の望みや欲求を後回しにしています。彼こそ,わたしたちが自らの利己心を捨ててキリストのようになるために,従うべき模範です。◆