リアホナ2010年4月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記

    アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記

      最終回●リアホナ編集室/編

    エピローグ──テーラー長老,その後の人生

    アルマ・O・テーラー長老が8年5か月の宣教師としての任期を終え,日本を発ったのは,1910年1月10日の朝だった。長きにわたって同僚として過ごしたフレッド・A・ケイン長老とともに横浜港を出発した。意外と知られていないことだが,二人が向かったのは母国アメリカではなく,韓国と中国だった。伝道の新しい可能性を探るためである。約9週間,二人は韓国と中国を旅し,これらの国の状況について大管長会へ調査報告を行った。当時の中国を視察したテーラー長老は,「回復された福音を宣べ伝えるためには,時期尚早」との報告をしている。

    二人は3月19日に再び東京へ戻り,3月30日にアメリカへ向かって帰国の途に就いた。それ以降,テーラー長老が日本の土を踏むことはなかった。

    4月26日にソルトレーク・シティーへ到着したテーラー長老を待っていたのは,年老いた父をはじめとする家族だった。

    「わたしは喜びに満たされると同時に,悲しみも感じた。日本に対するホームシックを感じながらも,年老いた両親の立場に立つと,喜びを感じていた。」

    8年ぶりの我が家ではあったが,「未知の世界にいるようだ」と記している。そして,大管長会への報告を終えた後,久しく留守にしていた自宅のベッドで眠りについたのだった。

    テーラー長老とケイン長老の帰国を祝うレセプションでは,かつてともに日本へ赴いたヒーバー・J・グラント長老,ホレス・S・エンサイン長老,ルイス・A・ケルチ長老と再会を果たした。帰国後の数週間は,日本での経験を語るよう求められて,テーラー長老は何度も集会に招かれた。当時のユタ州の教会員の中に日本を訪れたことのある人はほとんどおらず,テーラー長老の語る話は興味深いものであったに違いない。テーラー長老にとっては,頻繁に集会に招かれることから,宣教師の生活から一般会員の生活へと気持ちを切り替えるのは難しかったようだ。

    ちょうどそのころ,テーラー長老の父親は葬儀業の会社を経営していたが,経営状況はあまり芳しくなかった。テーラー長老もどのように助けられるか分からなかった。そうした中,テーラー長老はベネフィシャル・ライフという生命保険会社で保険を販売する仕事に就くことを決める。その仕事で生計を立てていこうと思っていた。しかし仕事を始めた初日のこと,父親が腰痛に襲われ,テーラー長老は老いた父親の世話をするために多くの時間を家で過ごさなければならなくなってしまった。結局,家族の強い願いもあり,テーラー長老は家業である葬儀業に携わることとなった。

    テーラー長老は家業を継ぐ前に,アイダホ州,ワイオミング州のティトンやジャクソンホールへ旅行に出かけている。自然の中で魚釣りを楽しみ,疲れを癒し,霊的に満たされていった。

    仕事を始めて間もなくテーラー長老は,ステーク日曜学校会長会や七十人定員会会長会に召されて責任を果たした。(当時は,伝道を行う神権の職「七十人」に召された一般会員が定員会を組織した。中央幹部としての今日の七十人とは異なる。)

    仕事の方も順調で,父親や兄弟と一緒になって働き,やがては,棺や葬儀関連製品を販売する会社を年々,成長させていったのだった。

    1915年10月26日に,テーラー長老はアンジェリン・ホルブルックと結婚した。そのときテーラー長老は33歳,ブリガム・ヤング大学とユタ大学で英語の教師をしていたアンジェリンは34歳だった。

    結婚生活が8年目を迎えたころ,子供のいなかったテーラー夫妻は養子を迎える決心をする。新生児をアンジェリンの義理の兄弟からもらい受け,リチャードと名付けた。41歳になったテーラー長老にとって初めての子供だった。

    家庭生活に恵まれ,仕事では経営者となり,教会の奉仕にも多くの時間を費やした。多岐にわたるテーマについてタバナクルで話すこともあれば,教会のラジオ局のKSLで視聴者へ語りかけることもあった。多忙ではあったが,両立を図りながら充実した生活を送った。

    しかし唯一,テーラー長老の胸を痛めることがあった。それは,アメリカと日本が第二次世界大戦に突入し,互いに敵として戦う状況となってしまったことだった。

    1943年,テーラー長老は60歳で仕事を引退した。余生を楽しむのはとてもすばらしいことだった。しかし引退から4年後,アイダホで釣りをしている最中に心臓発作を起こし,突然亡くなってしまう。享年64,1947年6月19日のことだった。

    「ソルトレークで最も傑出したビジネスマン」と呼ばれたテーラー長老の葬儀では,「南18ワードで最も活発な会員」と弔辞で述べられた。宣教師として日本で奉仕し,モルモン書を翻訳した情熱は,その務めを終えても生涯絶えることはなかった。

    100年の時を越えて──

    今日,モルモン書の翻訳100周年を記念して制作された特別装丁版の『モルモン経』が,全国各地でオピニオンリーダーに贈呈されている。100年前にアルマ・O・テーラー長老が『モルモン経』を出版したとき,80冊の特別装丁版を制作し,当時のオピニオンリーダーへ贈呈した,その故事にちなんで今回のプロジェクトが進められている。

    100年前の特別装丁版がどのようなものであったのか,その実本を目にする機会は今日はない。テーラー長老によって献上された『モルモン経』が現存するのかどうか宮内庁に問い合わせたところ,こう回答があった。皇室に贈られたものは皇族の個人的な所蔵品であり,中には目録の公開されている品もあるが,それ以外のものは,皇室の儀礼上,またプライバシー保護の観点からも「お答えすることはできません」と。

    ただ,記録はこう伝えている。明治天皇陛下と皇太子殿下(後の大正天皇)に献上されたのは,表紙に金銀の図案を配し,深紅色と濃い紫色のモロッコ革によって製本されたもの。また皇后陛下(照憲皇太后)と皇太子妃殿下(貞明皇后)に献上されたのは,表紙に金の図案を配し,純白のモロッコ革で製本されたものであった,と。テーラー長老の日記には以下の簡潔な記述が見られる。

    1909年9月15日(水)東京

    イイダさんが,天皇陛下,皇后陛下と皇太子殿下,皇太子妃殿下への献上用モルモン書の装丁デザイン(見本)を持って来た。それはたいそう立派な出来だった。

    実本が見られない以上,テーラー版の特別装丁本を忠実に再現する術はない。しかし一般向けのテーラー版『モルモン経』初版本は現存する。今回の特別装丁本は,出版100周年を記念し,この初版本のデザインを再現する形で制作された。そのため書名も『モルモン経』となっている。ただし,内容は2009年版の最新のモルモン書と同じものである。素材は皇室献呈本の記録にちなんで,深紅色のモロッコ革に金の図柄,三方金(金色の小口)で仕立てたものと,濃い紫色のモロッコ革に銀の図柄,三方銀で仕立てたもの,この2種類が制作された。

    この3月には,『モルモン経』の翻訳出版に関して最も貢献したと思われる人物に縁のある鳥取県日野郡日野町で,特別装丁版『モルモン経』の贈呈式が行われた。その人物とは,テーラー長老の翻訳した口語体の日本語を格調高い文語体へと書き換えた生田 長江である。夏目漱石から紹介された生田長江との出会いは,モルモン書日本語版を完成させるに当たって欠かすことのできないものだった。後に大正時代の最高の論客の一人とも言われ,翻訳家,小説家として文壇にも影響を与えた生田長江が生まれたのは,鳥取県の日野町である。

    2010年3月9日,地域広報ディレクターのロバートソン長老が教会を代表し,景山 享弘日野町町長へ特別装丁版の『モルモン経』を贈呈した。贈呈式は,生田長江の書籍を蒐集し所蔵している日野町図書館で行われた。生田長江が著した数多くの書籍とともに,『モルモン経』もその書棚に並ぶこととなる。

    贈呈式で景山町長は「こんな貴重な書物を日野町へ贈呈していただいたことは,とても名誉なことと感じています。郷土が生んだ文豪が,まさか,モルモン書とこのような縁でつながっていたとは思いもよりませんでした。生田長江とテーラー氏が注いだ情熱が,再び結び合わされたように思います」と語った。

    また,生田長江の歴史を保存し,その功績を評価して広めることを旨とする生田長江顕彰会の河中信孝会長はこう語る。「100年の時を経て,こんなすばらしい機会に恵まれたのは非常にうれしいことです。生田長江も喜んでいると思います。贈呈式が実現したことに,ただただ感激しています。これからも生田長江の様々な功績が評価されることを願っています。」

    ロバートソン長老は取材する記者に向けて語った。「山深い里の日野町から生田長江は,100年前に歩いて岡山まで行きました。そこから大阪へ向かい,そして,東京を目指しました。志の高い生田長江とアルマ・O・テーラーが出会ったのは偶然ではありません。モルモン書の翻訳に情熱を燃やすアルマ・O・テーラーの祈りと,神様の導きによって実現したのだと思います。」

    また,同日午後には,米子市立図書館でも一般のモルモン書とテーラー長老の日記(英文)の贈呈が行われた。

    テーラー長老の日記には,翻訳が完成し出版された『モルモン経』を生田長江に贈ったといった記述はなく,生田長江の所蔵品の中にも『モルモン経』は見つかっていない。出版の直後に帰国したテーラー長老は,彼にこの書物を手渡していなかったのかもしれない。そのため,生田長江とモルモン書との関わりはこれまで,長江を専門とする研究者の間でも知られていなかった。長江の弟子である生田春月の日記にしばしば現れる「テイラア氏」が誰なのかも分からなかった。だが今回,改めて教会からモルモン書が贈呈され,感謝の言葉が贈られた。生田長江とテーラー長老の知恵と情熱の結晶であるモルモン書が,テーラー長老も訪れたことのない生田長江の故郷に100年の時を越えて贈られたことで,二人の若者の功績が末永く覚えられる新たな一歩が踏み出されたのである。

    たった4人の宣教師で始まった日本の伝道だった。日本を去る前に,改宗した人々に思いを寄せ,自分の伝道は大きな成功を収めなかったのではないかと自問自答したテーラー長老。

    彼はそのとき想像しただろうか。これほど多くの宣教師が日本で働き,会員が増え,膨大な数のモルモン書が出版されると。また全国に美しい教会堂が建ち,幾つもの神殿が建ち,御霊と喜びに満たされた聖徒たちが幸福に暮らす国になると。── モルモン書が日本語へ翻訳されてから100年が過ぎた。勇気をもって踏み出したテーラー長老の一歩が,現在の日本における主の業の礎の一つとなっているのは,紛れもない事実である。(終