末日聖徒イエスキリスト教会 リアホナ2009年6月号 次世代へ手渡すことば ●第4回

    次世代へ手渡すことば ●第4回

    日本の教会の黎明期を担った開拓者から後に続く世代へ贈られる言葉のバトン──

    長嶺顕正兄弟●1936年沖縄に生まれる。小学生のとき沖縄戦を経験。戦後の1958年に改宗し,1962年から1979年まで沖縄で最初の日本人地方部会長を務める。次いで1980年に組織された沖縄那覇ステークの初代ステーク会長に召される。1997年から2000年までは日本東京神殿の神殿会長を務める。

    長嶺顕正兄弟が生まれたのは昭和11年(1936年)10月18日。8人きょうだいの四男であった。一家は日本軍の小禄飛行場,現在の那覇空港のすぐそばの村に住んでいた。

    顕正少年が小学校に上がるころ,太平洋戦争は次第に激しさを増していく。昭和19年(1944年)10月10日の沖縄空襲で小禄飛行場は焼き払われ,那覇港に停泊していた船はほとんどが沈没してしまう。そして昭和20年3月下旬,いよいよ米軍が大挙して沖縄の目前に迫り,艦砲射撃と空襲が繰り返された。

    沖縄戦の記憶

    「戦争が激しくなって危ない状態になったので,夜中から,北部名護方面に家族で避難したのを覚えています。この那覇空港近くから避難するときに,慶良間列島の山が,もう艦砲射撃が始まっていて全部焼かれ,大きな煙が立ち昇っているのを見ながら,わたしたちは急いで北部の方へ逃げたんです」と長嶺兄弟は回顧する。

    郷土防衛隊に入隊していた長男と,福岡の軍需工場へ勤労奉仕に出ていた二男を除く6人の子供たちが馬車に乗せられて北部を目指した。那覇港の河口に架かる明治橋を通って嘉手納方面へ向かう。「当時,アメリカの兵隊が上陸して北上するのを阻止するために橋は全部壊したんです。この明治橋では,ちょうどうちの家族が渡るのが最後だったようなんです。すでに橋には爆薬が仕掛けられていて,民間人が来るのでちょっと待てということでね。馬車の車輪が爆薬に触れないように,兵隊が注意深く,ゆっくりゆっくり渡してくれたと後で母から聞かされました。」

    4月1日に米軍は,嘉手納から読谷にかけての海岸から上陸する。長嶺家族が嘉手納を通過したのは米軍上陸の数日前であった。「嘉手納方面では米軍のグラマンという飛行機に見つけられて機銃掃射を受けたんです。そのときに銃弾がわたしたち家族の足もとを通って行きました。防空壕に入ってみましたら,そこはすでに日本の兵隊がいっぱいいまして,民間人の入る所じゃないと追い出されました。逃げて中部方面を走っているときにもう一度米軍機に見つかってしまって。急降下して来たのであわてて身を隠したところが弾薬倉

    庫だったんです。大きな魚雷がいくつも山のように積まれていて,それは子供ながらに見てびっくりしました。そこにいたら大変だとまたあわてて逃げました。」

    「昼間は危険ですから夜のうちに移動しなければなりません。それからずっと北上して行って,名護の近くの村を真夜中に通っていましたら,周辺の全部の民家に火が燃え盛っているんです。その火の中をわたしたち家族は逃げ惑いました。そして名護の海岸に着いて,用意していたおむすびを波打ち際で頬張っていましたら,知り合いの人が,翌朝から総攻撃が始まるからすぐ避難しなさい,と教えてくれました。それであわてて山の中に隠れたんです。それからはもう,忌まわしい激しい戦闘が始まりました(本部半島は4月22日に制圧が完了する)。食べ物もなく,山の中をさまよい歩きながら終戦を迎えました。わたしたち家族も捕虜になって,名護の方に一時,身を寄せていましたけれど,那覇近辺の人は帰還を許可されて戻って来たんです。

    残念ながら父と長男は戦争で命を落としました。長男は南部で部隊が解散し,友達4,5人と逃げる途中で米軍に発見されました。他の人たちは急いで壕のなかに隠れたんですけど,兄はちょっと遅れて壕の入り口で狙撃されてしまったんです。兄はこの壕の入り口に埋葬され,終戦後,遺骨を収集できました。けれども,父の場合は首里方面の戦闘に巻き込まれ,遺骨を拾うこともできませんでした。沖縄全体がそんな具合でした。わたしの世代の改宗者は大体が父なし子ですよ。わたしたちが戦後(那覇に)戻って来たときも,ここら辺の壕の中には遺骨がいっぱい入っているし,畑の土手なんかには白骨化した遺体があちこちに散らばっていました。」

    沖縄県民15万人以上が沖縄戦で犠牲になったと言われる。長嶺兄弟は,毎年多くの観光客が降り立つ那覇空港の近くに今も居を構えている。しかし戦前から住んでいた村は現在,自衛隊基地となり,いまだに立ち入ることはできない。

    軍人会員に育てられた沖縄の教会

    戦後27年間,沖縄はアメリカに統治された。高校を卒業した長嶺兄弟は無料英会話を通じて教会と出会う。「当時は,駐留軍のところで働くのがいちばん魅力があったんです。要するに給料がいい。英会話ができるといい条件で採用されるということもありました。」最初は,あくまで英会話を身に付けるためと割り切っていた長嶺兄弟であったが,やがてM I A(相互発達協会)の活動にのめり込み,英会話はそっちのけになる。自分から請うて宣教師を紹介してもらい,家庭集会を持った。「救いの計画を(初めて)聞いたときのあの喜びは,モルモン書のラモーナイ王が感じた喜びのようでした。」福音を素直に受け入れた長嶺兄弟は1958年9月,21歳で改宗する。

    「家族はもちろん猛烈な反対がありました。父親と兄が戦争で犠牲になっていますのでね。先祖を拝まないでアメリカの神様を拝むというので,母の心の中の悲しみはひとしおでした。母は,わたしが教会へ行けないように聖典や教科書を全部取り上げて隠してしまうんです。それでも教会へ行きたいという気持ちは,つらい思いがあればあるほどかえって強くなるものですよね。日曜日になると,窓から飛び出して教会に行ったり(笑)。それから,姉妹と結婚するときも,教会の中で姉妹と知り合ったものですから,猛烈な反対ですよ。」それでも,長嶺ご夫妻の信仰の実を見て,後に母親や家族の気持ちは和らげられた。

    弘子姉妹と結婚する1か月ほど前,1962年11月に26歳の若さで長嶺兄弟は,第12代沖縄地方部会長に任命されている。沖縄最初の日本人地方部会長であった。「教会は若い世代の人が非常に多かったですね。モルモン教会は子供たちの教会だと言われました。」そんな若い教会員を育ててくれたのは,ほかならぬ駐留米軍の教会員たちであった。当時は那覇支部の建物を軍人ユニットと共同で使っていた。「地方部会長室も,同じテーブルを半分ずつ使っていたんです。左側は地方部会長の書類,右側は軍の地方部会長の書類という具合で。いろいろな会議の持ち方,アジェンダの作り方なども軍の地方部会長から教えてもらったんですね。」

    また,沖縄に伝道が開始された当初から,教会堂を作ろうという気運は高かったが,少数の若い日本人会員では資金もままならない。一方,進駐軍の教会員たちは,経済的にも政治的にも大きな力があり,建築資金の獲得や伝道,教会堂の建築作業などに積極的な協力を惜しまなかった。バプテスマを受ける新会員を海岸へ車で送迎し,基地内の軍人会員宅へ招いてお祝いにごちそうしてくれたりした。「何かにつけて親切で,温かく見守ってくれ,特に年若い者が多かったものですから,ほんとうにかわいがってもらったと言った方がいいかもしれませんね。彼らの働き,助けなくして沖縄の教会の発展はなかったと思います。当時の軍人の兄弟姉妹には恩があります。」そこにはかつての敵国との思いはなく,福音の下で兄弟姉妹となった者同士の心の交流があった。

    その後,1980年には沖縄で最初のステークが組織され,長嶺兄弟は初代ステーク会長に召される。長嶺会長はステークのビジョンとして沖縄から常時100人の宣教師を送ることを掲げた。目標には届かなかったが,1980年代半ばから1990年にかけて,沖縄出身の宣教師は常時20人から25人働いており,1990年には日本沖縄伝道部が設立される。かつて軍の教会員に育てられた長嶺会長らの世代が使命感をもって次世代を育て続けた結果,人口わずか137万の沖縄県に2つのステークを擁し,80年代当時の帰還宣教師たちが,ステーク会長会,ステーク高等評議員やビショップなどの指導者となって沖縄の教会を担っている。

    先祖の救いと自身の救い

    そうして沖縄の教会の発展をつぶさに見て来た長嶺兄弟は,今,少年時代から一貫して響く心の声を聴いている。「沖縄には第二次世界大戦で犠牲になった方々が20数万人(民間人と日米両軍の軍人軍属を含む)おられますけれども,彼らの救いのために何かしないといけないと,心の中にそう感じるんです。彼らに対する思いが強くなったのは,自分の肉親が戦争で犠牲になったということも含めて,霊界からの必死の叫び声が聞こえるような感じが今もするからです。彼らは志半ばにして,戦争という忌まわしい戦いのために強制的に霊界に送られました。彼らも,神様の救いを心待ちにしていると思うんです。彼らを救う鍵を握っているのは,結局,今生きている家族であり親戚です。その人たちに福音を宣べ伝えなければ死者の救いはないわけです。ですからもっと積極的に働き掛けなければという使命感を強く感じるんです。」

    また長嶺兄弟はこう勧告する。「神殿には参入しているけれども,他人の儀式(神殿ファイル)を受けることで満足している人がまだ多いのではないでしょうか? 必死に叫び求めているあなたの先祖に対して,『ちょっと待って,今別の人の儀式を受けるから』とあなたが言ったら,先祖はどんな気持ちがするでしょう。死者の神殿推薦状は家族の記録なのです。先祖を一緒に神殿にご案内できるのはあなたをおいてないのです。

    わたしは(神殿会長として東京)神殿にいたとき,一所懸命自分の先祖の儀式を受けました。バプテスマでもエンダウメントでもあまり先祖の喜びを感じなかった。けれども結び固めを終えたとき,霊界からの歓声を強く感じたんですね。ああ,最後まで儀式を終えるのをかたずをのんで待っていたんだなと。先祖の儀式がバプテスマやエンダウメントで止まっていることも多いのではないでしょうか。1枚でもいいから自分の先祖の記録を携えて神殿に行き,(結び固めに至るまで)すべての儀式を終えることです。先祖の救いはあなたの救いなのですから。

    日本全国の兄弟姉妹がご自分の家族ファイルを携えて神殿に行くようになると,預言にあるように日本のそこかしこに神殿ができるのではないでしょうか。同時に,死者も子孫に必死に呼びかけていますから,伝道がもっと盛んになっていくのではないか。(神殿が建設されることに)拍手喝采し涙を流す喜びだけでなく,実際に神殿に来て,先祖と一緒に喜びを分かち合えるような状態になったら,日本にほんとうの意味で平和が来るのではないかと思いますね。」◆