リアホナ2008年10月号 次世代へ手渡すことば  第3回 柳田聰子姉妹

    次世代へ手渡すことば  第3回 柳田聰子姉妹

    ●1908年(明治41年)に改宗した高橋仁吉の姪であり,大正時代に『末日聖徒讃美歌』を翻訳した高木富五郎の娘として1919年(大正8年)に生まれる。1960年には父との共同作業で賛美歌の再翻訳を行うなど,日本の教会歴史の証人として歩む。

    柳田聰子姉妹はバイナル・G・マース伝道部長に一つのお願いをした。戦後間もない1949年のことである。「名古屋の方が鳴海よりも大きな都市ですから宣教師を名古屋に派遣して集会を開いてください。きっとたくさんの人が集うようになりますから。」名古屋で集会が開かれることを熱望してのことだった。当時,名古屋にいた会員はわずか3人。その年の9月に改宗した夫の柳田藤吉兄弟と20代の足立芳枝までは,2時間かけて鳴海まで通い,進駐軍の礼拝堂で行われる英語の聖餐式にアメリカの軍人と一緒に出席していた。

    夢中だった開拓時代

    「名古屋の千種区にある椙山の講堂を借りることができましたので,1950年の1月から日曜学校を行うことになりました。大きな講堂でしたから少し不安な気持ちもありました。足立姉妹と主人とわたしで知恵をしぼってチラシを作ることにしました。主人は仕事へ行かなければなりませんでしたから,わたしが新聞配達所へ行き,頼んで新聞に入れてもらいました。宣伝はしましたが,果たしてどれくらいの人が集まるのか心配で,わたしと足立姉妹は学校の玄関で待ち続けました。マース伝道部長に名古屋の方が発展しますって言ったものですから,もし,人が来なかったら申し訳ないと心配していました。」

    日曜学校を教えたのはハワイ出身の日系人,坂田長老だった。不安な気持ちで講堂をのぞくと,そこにはたくさんの人が集っていた。「数えたら150人もいました。翌週には別の人が130人。多くの人が興味を持って集まってくれました。」ところが,柳田姉妹を含めた当時の3人の教会員も宣教師も出席者をとどめる方法を備えていなかった。「わたしたちも宣教師のレッスンを受けたことがありませんから,どのようにして教えるのか方法が分かりませんでした。もちろん,教会についての知識もありません。何も教えられませんでした。コートを着て,手袋をして,暖房もない広い講堂に集う人は徐々に減り,最後にはわたしたちを含めて10人ぐらいになってしまいました。結局は,場所を変えて,幼稚園の小さな部屋で集会を開くことにしました。いすが小さくて苦労しましたが」と柳田姉妹は最初の伝道活動の経験を振り返る。人数が少なくても,方法が分からなくても,教会を発展させるために夢中になっていた。そんな環境の中へ転勤してきた宣教師のウェイン・R・ハーレン長老が柳田姉妹に最初の責任を与えた。

    「あなたが教えるのがいちばん良いと思います。」しかし,柳田姉妹は「何も知らないので,教えることはできません」と答える。「それでは,ノートを持ってわたしのところへ来なさい。わたしが教えてあげましょう。」柳田姉妹はハーレン長老から教義を学び,それを日曜学校に集う人たちに教えはじめた。「自分が知らないことをあたかも知っていたかのように教え,知らなかった戒めについても教えました。教えながら自分も守らなければと思い,生活が変わっていきました。」当時はレッスンプランもなく,十分に教義を理解している会員は少なかった。柳田姉妹も,バプテスマを受けてから知った戒めもあったと苦笑する。

    「どんなにうまくいかないことがあっても,信仰が揺らいだことはありませんでした。集会をする場所が小さな幼稚園へ変わってから出席者が増えることはありませんでした。しかし,続けて出席する人はいました。その人たちにそのまま続けて出席してほしいと願って,夢中で頑張りました。そのときから,希望と決心だけは途絶えることなく続いています。信仰が揺らいだことはありませんし,教会をやめたいと思ったこともありません。もちろん,大変だと感じることもありましたが,嫌だとは思いませんでした。教会に集う人たちに,そんな気持ちを感じさせてはいけないと思って必死でした。」

    柳田姉妹は教会に集う者として当然のように宣教師と一緒に伝道したという。「当時は街頭伝道をするとすぐに50人ぐらいが集まる時代でした。宣教師がみかん箱の上に乗って伝道していましたが,あなたもやりなさいというので,わたしもみかん箱の上に乗って話したり歌ったりしました。」

    希望と好奇心を胸に

    柳田姉妹が教会の次世代の人たちへ伝えたいと思うメッセージはシンプルだ。まずは「あきらめてはもったいない」。その言葉は柳田姉妹の59年間の信仰生活を象徴する言葉でもある。「よく伝える言葉なのですが,教会は永遠のものだから簡単にはやめてはだめです。続かなかったらそれまでの努力が無駄になってしまいます。」しかし,柳田姉妹が信仰生活を続けてきた中に「耐え忍ぶ」という言葉はあまり登場しなかったという。「耐え忍んでばかりいたら人生は窮います。正直なことを言うと,わたしは耐え忍ぶのはあまり好きじゃありません。もし,59年間も耐え忍んでいたとしたら,ものすごく委縮した変な人になっちゃいますよね。

    振り返れば大変だと思うことはありましたが,いつも前向きな態度を持っていました。自分で決めてバプテスマを受けたのですから,いつも前向きに頑張っていました。若い方々には,ご自分の信仰に対して,ぜひとも前向きになっていただきたいです。人間関係の問題があったり,気にいらない人がいたとしても,気楽に受け流すおおらかな気持ちが大切です。自分の昇栄について考えてください。わたしは神様のところへ行きたいので,単純に神様の言うことを聞いているだけです。耐え忍んで聞いているのではなく,希望をもって聞いています。そして,教会を楽しむのにいちばん良い方法は友達を作ることです。教会の中に親友ができれば,その人に会うのが楽しくなりますから。神殿でも同じです。義務だと思ってはいけません。皆さんは希望の道の途中にいます。ですから,義務だと思わないことです。希望があればつらいとは思わなくなりますよ。耐え忍ぶことが強調されることもありますが,よほど強い人でなければ10年ももたないのではないでしょうか。わたしは耐え忍んでいません。」

    そして,もう一つのメッセージは「好奇心を持つこと」。「わたしほど好奇心を持っている人も少ないのではと思うこともあります。何でも一人で挑戦してしまいます。今は毎週木曜日に神殿へ行っていますが,84歳までは自分で車を運転して行っていました。パソコンも使いますし,いろんな人たちとメールもしています。外国の友達には英語で送ったりもします。12年ほど前まではワープロを使っていましたが,教会員の友人に勧められてパソコンに替えました。詠んだ短歌もすぐに送れますので。好奇心が強いので78歳になってもパソコンに興味を持ってしまったんですね。水曜日にはコーラスのグループで歌っています。短歌の会は月に1回ですが参加しています。介護施設にいる主人のところへも行きますし,やることが多くてお医者さんへ行く時間がありません」と笑う。

    90歳の「将来の夢」

    昔と比べると教会の活動もだいぶ楽になったと回想する。「当時は教会堂などありませんでした。日本中,同じような状況でした。しかし,わたしたちはいつも希望があって,建物を建てるために建築資金も一生懸命集めていました。バザーやスキヤキパーティー等のイベントをして,教会で使うお金を作ることばかりを考えていました。本当に苦労しましたが,みんなで一緒に苦労していました。今はとても楽になりましたね。教会へ集うのに,集会をする場所を毎週探す必要もありませんし,お金を作り出すことも考えることもありません。それでも,わたしの気持ちはたった3人で集会していたときとまったく変わっていません。宣教師が教えている人にも話しかけて今もフェローシップしています。相手はきっと変わったおばあちゃんだと思っているでしょうが。」

    柳田姉妹があまり好まない言葉の一つは「後期高齢者」だと笑う。「先に生まれたのに後期ですからね。」

    「今はどこへ行ってもわたしが最年長になってしまいました。わたしよりも年長の方もいらっしゃいますが,同じように動き回っている人は少ないと思います。東京神殿が1980年に奉献されたとき,10組の神殿宣教師がいました。6組は日本人,4組はアメリカから来た人たちでした。その6組の12人の日本人の中でいまだに神殿に行っている人はわたしだけです。他の方はみんな亡くなりました。わたしと主人だけが残っています。主人は生きていますが,気持ちは次の世界へ行っていますから。同年代の友人はいませんが,30代から60代の友達はたくさんいます。わたしはもうすぐ90歳になりますが,70代や80代の人たちはもう少し元気を出してもよろしいのではと思うときもありますね。わたしは元気な人が好きなので,どうしても,もう少し若い人たちと話しちゃうんですね。教会の中で60代とか70代になって教会の責任から卒業したような気持ちになるかもしれませんが,わたしはまだまだ卒業できません。」

    柳田姉妹が卒業できない理由は幾つもある。「やりたいことが尽きない」のだという。「人の道ですから,いずれ神様のところへ行かなければなりません。しかし,まだまだやりたいことがありすぎて困っています。去年は米寿(88歳)だったので記念に一人でハワイに行きました。アメリカに住む友人とメールで調整してホノルルで会いました。」

    そして,次に控える柳田姉妹の「将来の夢」。「次はソルトレーク・シティーへ行こうと思っています。大会の時期に行ってリユニオンをやりたいと思います。それが今のわたしの夢です。」

    柳田姉妹にとって「次世代」とは青少年や独身成人を指す言葉ではない。自分よりも若い人たちは柳田姉妹にとって,すべて教会を担う「次世代」という感覚を持っている。「先日,福田真兄弟にお会いしたとき『長いこと知恵の言葉を守っている人は普通の人よりは10歳若い』と話されていました。そうすると,わたしは80歳ということになりますから,『そうか,まだまだ80歳ということだから,わたしは元気いっぱいなんだ』と思ったんです」とほほえむ。柳田姉妹は体力や見た目が若いだけではなく,心も若い。その心の若さこそが,年を重ねつつ信仰を楽しむ力の源なのだろう。あきらめないこと,そして,好奇心を持ち続けること。そんなシンプルなメッセージを行動で伝える90歳の柳田姉妹。自分が柳田姉妹と同じ年になったとき……。そう考えると,身辺が「夢中になれることであふれている」と語る柳田姉妹を,だれもが憧れの眼差しで見上げるのは当然のことかもしれない。◆