リアホナ2007年10月号 全日本YSAカンファレンス

    全日本YSAカンファレンス

    ●2007年9月1日

    十二使徒特別集会      デビッド・A・ベドナー長老を迎えて

    ヤングシングルアダルトカンファレンス最終日,府中の森芸術劇場(東京都府中市浅間町)での特別集会において,十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は出席者に次のように語った。

    「この会場にいらっしゃる男性女性の顔をどうぞ敬虔な気持ちで眺めてみてください。日本中の津々浦々から来られたことが分かるでしょう。主イエス・キリストへの信仰があるので集まったのです。今日ここには力強い一致の御霊があります。これはただ単なる集会ミーティングではなく啓示を受ける機会です。」

    主体的に行動すること──啓示を受ける方法

    「さて,皆さんに質問するように招く理由は,皆さん自身が主体的に行動し,受け身にならないためです。預言者ジョセフ・スミスによると,信仰とは,すべての英知あるものに行動を促す力であると述べています。ですからキリストへの信仰は必ず,ある行動に結びつかなくてはなりません。したがって皆さんとわたしが一緒になり,正しい原則に添って行動すると,行動は信仰の表れとなり,その信仰は聖霊からの教えを招くのです。」

    以下は,この集会で話された質問と答えの抜粋である。ベドナー長老姉妹が話された大きなテーマに添って編集したため,質問の順序は集会当日の実際とは異なっている。

    教会から足の遠のいている友人がいます。教会に行くことが自分の信仰の表れだと,どのようにしたらその友人に分かってもらえるでしょうか。

    「わたしたちがしばしば話題にする,二つの並び立つ原則があります。一つは,御霊によって教える,という原則。もう一つは,信仰によって学ぶ,という原則です。この二つは両方とも同じくらい大切な対になる原則です。でもわたしたちは,御霊によって教えるという方向に重きを置きがちです。(御霊によって)正しく教えれば,相手はきっとそれに反応してくれる,と思うんです。

    では第二ニーファイ33章を見てください。これを読むときに,皆さん自身の友達や知り合いの中で教会に来ることにあまり関心を示さなくなっている,そういう人を思い浮かべながら聞いてください。『……人が聖霊の力によって語るときには,聖霊の力がそれを人の子らの心に伝えるからである。』”the power of the Holy Ghost carrieth it unto the hearts of the children of men.”聖霊が人の子らの心の中に入って行く(into)のではなくて,人の心の表面に働きかける(unto)と書いてあります。わたしのメッセージもあなたのメッセージも,その人の心の表面の所にまで(unto)しか行くことはできないのです。第2節には,かたくなな心のときはどうなるかが書いてあります。『しかし見よ,聖なる御霊に対して心をかたくなにする人が大勢いる。彼らには聖なる御霊は宿ることがおできにならない。そのために,これらの人々は,書き記されている多くのことを捨てて,これらを価値のないものと見なす。』──御霊によって真心からの力強い証をしても,それは大切でないと思われ捨てられるという経験があるでしょう。それはわたしたちの証が効果的でないからではないのです。証を受ける人の心が固いから入って行けないのです。ただ話すだけでは人の心は柔らかくなりません。ですから必要なことは,聖霊の御霊が隣人の心の表面まで(unto)行くのではなく,中に入って(into)行くことです。

    対の原則は,御霊によって教える,と,信仰によって学ぶ,です。信仰とは,すべての英知あるものにおける行動の原則です。したがって人は,正しい原則に添って行動するとき信仰によって学びます。これは,ただ単に何を言えばいいか,という問いではなく,その人が(信仰を行使すべく)行動を起こすためにわたしはどんな助けができますか,という問題です。この人は,行動を起こすように勧められているわけです。それが少しの信仰であったとしても,行動することは信仰の表れです。では,少しの信仰を行使することによってどんなことが可能になるでしょうか。ほんとうに少しずつ,その人の心が柔らかくなっていくのです。そして聖霊が心の中に入り込むことがおできになれるようになるのです。

    あなたが真心から祈って備え,その人が行動を起こすためにわたしはどんな助けができるか,という問いについてよく考えるならば,その人の助けになるには何ができるかということを聖霊が,直接かつ穏やかに教えてくださるでしょう。その人の心が変わるために,あなたはもしかしたら何を言うこともすることもできないかもしれない。でも,その人を招いて,一所懸命働きかけることはできます。真理の原則に添ってその人が行動することにより,心が和らげられるようにお手伝いすることはできるわけです。あなたはこう言うかもしれません。ベドナー長老,わたしはこの人を教会に来るよう何度も招待しました,でも来てくれないんです。──だからこそ,この問いかけについて祈って熟考する必要があるのです。わたしが誘った誘い方は正しかったのだろうか。この友達を助けるためにわたしは何かほかにできることがなかっただろうか。そうするとその答えを,あなたは霊感を通して聖霊から受けることができます。」

    祈りの答えを求めているときに,正しいように思える答えを受けるんですけれど,それがほんとうに正しいかどうかを知るにはどうしたらいいですか。

    「わたしたちはすべての答えが極めて速やかにやって来ることを期待します。しかしわたしの経験では,祈りの答えはゆっくりと,また少しずつ小さな断片で来る傾向があります。『わたしはここにも少し,そこにも少しと,教えに教え,訓戒に訓戒を加えて,それを人の子らに与えよう。わたしの訓戒を聞き,わたしの勧めに耳を貸す者は,知恵を得るので幸いである。わたしは受け入れる者にさらに多く与え,「もう十分である」と言う者から

    は,彼らが持っているものさえも取り上げる。』(2ニーファイ28:30)」──ベドナー長老は,教育や就職など人生の重要な決断に対する答えを求めるとき,信仰をもって前に進みつつ,多くの小さな導きを祈り求め続けるように勧告する。「ニーファイは真鍮版を得るためにエルサレムへ何回,戻りましたか? 3回です。(1ニーファイ3-4章参照)ニーファイはすばらしい預言者でした,とよく話しますが,彼が正しい答えを得るためほんとうに格闘したという事実についてはあまり話されないのです。1回目,2回目……真鍮版を得ることができましたか? だめでした。彼はその経験から学んだのです。……3回目,エルサレムへ行きました。この聖句がわたしにとってほんとうに大切なものに思えます。『わたしは,前もって自分のなすべきことを知らないまま,御霊に導かれて行った。』(1ニーファイ4:6)エルサレムという目的地は知らされていました。天の命令(真鍮版を得ること)は知っていました。でも,どうやってそれを成し遂げるか,まったく知りませんでした。でもとにかく,エルサレムへ行ったのです。

    この物語から,信仰というものの原則がお分かりいただけますか? ニーファイはテントの中でじっとして答えを求めて祈っていたわけではなかったのです。確かにニーファイは天幕の中でお祈りをしました。でもその後で立ち上がってエルサレムへ向かったのです。すべてにわたって答えがあったというわけではありません。ニーファイの信仰は,自分の信仰がどうやって結果を生むことになるのか分からなかったけれども,それでも行ったという信仰なのです。立ち上がって,そして行動に移しましたね。

    兄弟姉妹の皆さん,間違うことを恐れて固まってしまうことのないようにしてください。恐れることはない,ただ信じなさい。『信仰が試されてからでなければ,証は得られないからである。』(エテル12:6)主は,わたしたちが祈って,信仰を示し,その後に行動することを願っていらっしゃいます。(祈り求めたことが)どんなふうに起きるのか分からないままに行動するようにと願っておられるのです。『あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。』(2ニーファイ31:20)人生の中で,皆さんの望むことに向かって進んで行くのも同じです。力強く進むとは,前を向いて進んで行くということです。これが,答えを受ける方法ですね。座して待つのではなく,前を向いて進んで行くときに答えが来ます。『これらのことは,判断力と御霊の指示に従って行うようにあなたがたに任されている。』(教義と聖約62:8)」

    永遠(御父の幸福の計画)の視点から人生を見る

    ベドナー長老は,わたしたちYSAの年代のとき,どういうことを中心に考えて生活しておられましたか。

    「わたしは20代の前半にドイツで伝道しました。……宣教師が伝道を終えて帰って来ますと,その次になすべき大切な責任は,永遠の伴侶を適切な方法で探すことです。教育や,仕事や,生活の安定が先に来るのではありません。当時わたしはプロボのブリガム・ヤング大学(BYU)の学生で,仕事もお金もなく,将来の職業のために勉強を続けていました。でもわたしはキンボール大管長から教わったように,永遠の伴侶を見つけるための適切な努力を重ねていました。」

    ベドナー長老は1973年8月に伝道から帰還,1974年1月にベドナー姉妹と出会ってデートを始め,1975年3月に結婚した。「皆さんに大きなプレッシャーを与えるつもりはありません。ただわたしが申し上げたいのは,末日聖徒としてどこに優先順位を置いたらいいかを理解してほしいということです。もちろんヒンクレー大管長のおっしゃるように,教育はできるだけたくさん受けた方がいいです。でも大管長はそれを,永遠の伴侶を見つけることより優先してくださいとはおっしゃいませんでした。もちろん訓練や教育,仕事を求めることはきちんとしなければなりません。しかし,男性と女性との間の結婚は神が定められたということを常に忘れないでください。わたしたちの天の御父の計画,神の子供たちのための幸福の計画の中心を成すのは結婚です。神の預言者は,(人生の中の)優先順位をちゃんと教えてくださっています。」

    ベドナー姉妹は別の(祝福師の祝福についての)質問の中で,自身の結婚について振り返っている。「わたしは祝福文に心から感謝しています。それは天の御父からの個人に対する聖典です。祝福文とはわたしたちの可能性が書かれたものだとモンソン管長は言われました。わたしの人生を振り返りますと,ほんとうに様々な方法でこれらの祝福が成就されてきたのがよく分かります。若かったころ,ああ,これはわたしの祝福文が成就したんだと感じることがありました。しかし成長し,いろいろな戒めを守っていくにつれて,さらにその祝福文が成就されていることが分かりました。祝福文は,譬えるならばタマネギのようなものです。そこにはたくさんの層があるように,さまざまな成就や意味が何層にも重なっています。わたしが皆さんの年齢だったころの,祝福文にまつわるある経験を分かち合います。」

    ベドナー姉妹は若いころ,しばらくある男性とデートを重ねていた。彼はベドナー姉妹との結婚を真剣に望み,姉妹はプレッシャーを感じていた。「でも,その当時わたしはその方と結婚することについて正しいと感じませんでした。祈って,祝福文を読んだとき,この時,この時期にわたしに必要な言葉が書かれているのを見つけました。結婚とは両者がお互いにそれは正しいと感じて行うものだというようなことが書かれていました。彼の方はそれが正しいという確信を得たのですけれど,わたしはそれを受けていませんでした。それは何よりも重要な決断でしたので,わたしはそれが正しいということを知る必要がありました。」それから7,8年後にベドナー長老との結婚を考えたとき,彼は自分にとって正しい相手(right person)だというしっかりとした確信をベドナー姉妹は得たという。「祝福文をよく読んで学び,よく考え祈るならば,皆さんは必ずたくさんの助けを祝福文から受けることができます。これから将来にかけて,神様が皆さんに何をしてほしいと望んでおられるかによく焦点を当てることができます。」

    姉妹の話に関連してベドナー長老はこう言い添える。「個人の選択の自由,これをだれであろうと支配することはできないのです。姉妹の皆さん。だれか若い男性から,わたしはあなたと結婚するようにと啓示を受けました,というように言われたら,その人は,神権についても啓示についても理解していないと考えてください。あなたのことについて代わって啓示を受ける権利は彼にはないのです。自分自身で霊的な確認を得るのは,皆さんが自分でしなければならないことです。神権と啓示の原則を理解している男性は,不正な支配をすることはしません。」

    日本社会では少子化が大きな問題になっています。わたしたちにはどのような責任があるでしょうか?

    「では,幸福の計画に焦点を絞りましょう。わたしたちはこの地上に生を受ける前,天の御父とともに生活していました。わたしたちは天の御父の霊の息子,娘です。わたしたちはこの地上へ,肉体を得るために,そして信仰をもって試しを受けるためにやってきました。そして,イエス・キリストの贖罪により,わたしたちは天の御父のみもとへ行く可能性が開かれたのです。そこで永遠にわたって御父とともに住むのです。

    では,ここで皆さんに率直に申し上げます。この天の御父の幸福の計画を滅ぼすためにサタンは何ができるでしょうか。二つのことです。一つは,わたしたちが自分の肉体を濫用することを求めます。わたしたちが祝福として受けている神聖な生殖の力を濫用するようにとそそのかします。二つ目は,生を受けるために待っているほかの霊の子供たちが肉体を得る機会を閉ざそうとします。アダムとエバには戒めが与えられました。『生めよ,ふえよ,地に満ちよ』。日本で何が起こっているか皆さんは御存じです。その戒めを守っていません。ですからこれは,ただ単に結婚するしないとか子供をもうけるもうけないとかいう次元の問題ではありません。天の御父の幸福の計画について話しているわけです。なぜ,日本だけではなく実にたくさんの国々で出生率が下がっているのでしょうか。それは利己心,自分中心の考え方があるからです。子供を産み育てることは大変なことです。子供を得ることで生じる不便を好まない人,家族や子供たちのために自分の楽しみを犠牲にすることを厭う人たちがたくさんいます。そういった事柄は結果として天の御父の幸福の計画と反対のことをしてしまうのです。

    ですからあなたへの答えはほんとうに単純で率直です。あなたの責任は,天の御父の幸福の計画を理解すること,(それは特にモルモン書の中に示されています)そして生涯ずっとそれに従って生活することです。そうすることで成長し改善を図ることができます。わたしたちは適切な年齢で永遠の伴侶を求めます。そして男女は神殿の中で結び固めを受

    けます。神聖な生殖の力が使われて子供たちが送られてきます。わたしたちは子供たちに福音の原則を教えます。御父の計画の喜びについて教えます。そうすると彼らは成長し,同じような生活を営むことでしょう。幸福とは物を所有することや高い地位,お金などから来るものではないのです。幸福は,男性と女性が結び固めを受けるところから来ます。病気やチャレンジ,困難もあるかもしれません。でも,お互いに助け合うことで乗り越えるのです。そして子供たちに,贖い主とその福音について教えます。幸福が真実なものとなり永続するにはそれしか方法がありません。このように福音は,わたしたちが利己的になるのを防ぎます。家庭は,天の御父のようになるための一つの手段として与えられているのです。」

    SAの世代に分かち合いたいことは何ですか?

    「わたしは,YSAとSAというのは違わないと思っています。みんな兄弟姉妹ですからそういう範疇に人を分けたくないのです。でも,皆さんの中で少し成熟しておられる方々が,結婚や家庭生活について教会で話されているとき,わたしにこれがどう当てはまるのだろうか,と考えることがよくあります。わたしは独身会員としてもう歳を取っているので,家族を中心とする教会の教えには当てはまらない,そう思う方がいらっしゃるのです。

    問題の焦点となるのは,教会の教えが自分に当てはまるかどうかではなく,わたしたちが(隣人に)何を与えられるかということです。イエス・キリストの福音の目的は自分自身の必要を満たすことではなく,つらいときに慰めを与え,自分が安楽なときに苦難を与えて進歩させることです。時々,教会では結婚と家族についての教えが多すぎると考える人がいます。でも,幸福の計画について話すときに,その中心である結婚と家族について話さないでどうやって教えることができるでしょうか。ですからわたしたちは,この簡潔な教義を教えるのをやめません。わたしたちは永遠に家族と一緒に住みます。これは永遠の原則なのです。

    これは御父の計画の中でほんとうに簡潔だけれども力強い原則だと思います。多くの人は,生まれてから死ぬまでのこの死すべき世を人生と考えます。でも,わたしたちには前世・現世・来世という永遠にわたる長い生活があるのです。(それぞれの人生の機会がなぜ異なるのか)わたしには分かりません。まだ受けていない祝福を求めている人は,キリストへの固い決意をもって前進する必要があります。(2ニーファイ31:20参照)。そうすると,困難な時期を乗り越えるだけの力が与えられます。そしてこの地上で,永遠にわたって家族とともに住む準備をすることができるのです。それが真実であることをわたしは心から証します。人が永遠にわたるビジョンを持つと,独身であるわたしは家族のことばかりを話す教会の中で居場所がない,と言うことはないでしょう。」

    わたしはボランティアをしているのですが,障がいを持つ子供たちにどのような愛をもって接すればよいでしょうか?

    「時々わたしたちはハンディキャップ(=障がい,あるいは不利な条件)ということをとても狭い意味で──歩くこと聞くこと見ることができないといった意味で捉えてしまいます。でもそれは必ずしもハンディキャップではない。そこには人と違った学びの機会があるということです。

    では皆さんがこれまで考えてみたこともないような別のハンディキャップについてお話ししましょう。この世では,魅力のあること,容姿が美しいことに非常な重きが置かれています。でも,美しいということはハンディキャップかもしれない。なぜなら美しい,あるいはハンサムな人は,心の中にいいものがあるからこの世で成功するのではなくて,外見だけで成功してしまうかもしれないからです。その人がどんな技術や能力を高めたかによって評価されるのではなく,外見がどうであるかだけで評価されてしまうのです。これは成功ではありません。それは浅薄ではかないものです。

    したがって肉体的な制限があるというハンディキャップは,あるいは美しい顔を持つというハンディキャップは浅薄なものです。ハンディキャップというのはどこにあるのでしょうか。お金がたくさんあるということもハンディキャップになりませんか? 裕福なために福音を捨ててしまった友達をわたしはたくさん知っています。神に頼らなければいけないことを忘れてしまったのです。彼らが死ぬときには富はついて行かない,その教えを彼らは忘れてしまいました。ですからだれがハンディキャップを持っているのでしょうか。金持ちの人でしょうか,それとも,手の不自由な人でしょうか。もちろん,お金が悪いとは言いません。でも,お金を愛して神聖なものをわきにのけることが罪なのです。

    いろいろな面で,肉体的なハンディキャップを持つ方がおられます。わたしたちはこの方々を,ほかの兄弟姉妹と同じように遇する必要があります。愛をもって,親切をもって,彼らに奉仕する必要がありますね。そのようなハンディキャップを持っておられる方には,イエス・キリストの贖いを求めてくださいと申し上げたいのです。それがわたしたちを強めてくれます。わたしたちはイエス・キリストの贖罪が,過去に犯した罪をすべて洗い流すことを知っています。しかしキリストの贖いはもっと多くのことを行ってくれます。さらに自分を高めて,難しいこと,これまで自分の力でできなかったことをできるようにしてくださるのです。

    モーサヤ書第24章にある例には,そうした贖いの結実が示されています。ここでは,アルマとその民がアミュロンによって迫害されていました。13節から読みましょう。『そして,苦難の中にいる彼らに主の声が聞こえて,言われた。「あなたがたの頭を上げて喜びなさい。わたしは,あなたがたがわたしと交わした聖約を知っている。わたしは自分の民と聖約を交わし,その民を奴隷の状態から救い出す。」』この13節で注意していただきたいのは聖約ということです,これが彼らの中心だったのです。そこから祝福があると信じていました。その祝福が何かを14節が語っています。『またわたしは,あなたがたの肩に負わされる荷を軽くし,あなたがたが奴隷の状態にある間,あなたがたの背にその荷が感じられないほどにしよう。わたしがこのようにするのは,あなたがたがこの後,わたしのために証人になれるようにするため,また主なる神であるわたしが,苦難の中にいる自分の民を訪れるということを,あなたがたが確かに知ることができるようにするためである。』15節には,どのようにしてその重荷が解かれたかが書いてあります。『そこで,アルマとその同胞に負わされた重荷は軽くなった。まことに,主は,彼らが容易に重荷に耐えられるように彼らを強くされた。そこで彼らは心楽しく忍耐して,主の御心にすべて従った。』重荷が取り除かれたのでしょうか? 違います。重荷は同じでした。民が強くなったので軽く感じたのです。これはほんとうに学ばなければならない大切な教えです。わたしたちはよく,この重荷を取り除いてください,と祈ります。しかしもしかすると今受けている重荷が,この死すべき世の中で,わたしたちが学ばなければならない大切なことを教えているかもしれないのです。ですから祈りは,重荷を取り除いてください,ではなくて,天のお父様,この重荷に耐えられるようにわたしをもっと強くしてください,と祈るべきです。

    では,ハンディキャップを持つ方々へのメッセージです。『恐れることはない。ただ信じなさい』(マルコ5:36)キリストに対する信仰を行使するときに,主はこの地上において,わたしたちが何をすればよいか知ることができるように助けてくださいます。この死すべき世で,わたしたちが教訓を学ぶのを助けてくださいます。そして永遠にわたって天父とあなたの家族とともに住む備えをさせてくれるのです。そして,見ることのできる目と聞くことのできる耳を与えてくださいます。この地上の期間とは非常に短いものです。その間は制限があると思います。でも,贖罪を通してわたしたちが受ける力というものは,そしてこの死すべき世でわたしたちが学ぶ教訓というものは,わたしたちにとって永遠の祝福となることでしょう。」

    次世代の若人──日本の未来

    日本の若人を見て感じられる,良い点と,もう少し努力すべき点を教えてください。

    「妻とわたしはこれまで,全世界の若い男性女性の方々とお会いしてきました。これから伸びようとする世代の方々に対するわたしの答えは非常に簡単なものです。いい子(good boy and good girl)でいてください。福音に従って生活してください。──簡単です。そうすると幸福が訪れます。日本の街を歩いていると,幸福そうに見えない若人がたくさんいますね。皆さんはちょっと違いますよ。皆さんの表情の中に,キリストの御姿と,福音から来る喜びが見えます。」

    「主は御自身の業を,劇的な大きな方法で達成されるのではありません。小さなことから大きなことが生じるのです。皆さんはいつの日か教会の中でだれもが注目するような指導者になる必要はないのです。わたしたちの教会における責任の大きい小さいは主の前に問題ではありません。どうぞ聖約を守ることだけを心がけてください。救い主への信仰を行使してください。恐れないで,ただ信じてください。そして,いい子でいてください。福音の教えることを実行してください。特に世の人々がそうしないときに,そうしてください。皆さんが自分を従わせるべき文化とは,国の文化ではなくキリストとその教会の文化です。日本でも,ほかのあらゆる国々でも必要なことは,よい男性とよい女性がいるということです。幸福の計画について理解し,それを実践に移すことです。するとその幸福が自分の生き様に反映されます。

    今日,ここにいらっしゃる若い男性・女性の皆さんが,日本の国をほんとうに約束された明るい方向へ変える,変革するという姿を心に描けるでしょうか。皆さんがただ単に,よい男性,よい女性として生活するならばそれができるのです。サタンが,結婚や家族の神聖さについてあざけり笑っている姿が見えるでしょうか。皆さんには神の力を得て,それを止めるだけの力があります。皆さんの人生の中で,家庭の中で,教会の中で,日本中に影響を及ぼす力です。日本の次世代の人々がそうすることを主は心から望んでおられます。この会場の中には,日本における末日聖徒イエス・キリスト教会の未来があります。日本の未来です。」

    「御霊が臨むときに,わたしたちは永遠に近づきます。ですから,時間を気にしないのです。今日,わたしたちが経験したことを考えますと,それは皆さんのおかげだと思います。皆さんが準備してくださったために,また皆さんのキリストへの信仰のゆえに,みなさんが学ぼうとする意欲のゆえにそうなりました。ほんとうにありがとうと言いたいです。」

    ベドナー姉妹は証を述べた。「御霊に触れられたので涙がこぼれています。皆さん一人一人に大きな愛を感じています。」会場にも御霊と愛を感じて涙を拭う人々が多く見られた。

    ベドナー長老は最後に,御父と御子が生きておられること,また贖いと回復の業についてのシンプルで力強い証を述べ,使徒職の権能により,そこに集ったすべての人々に祝福を宣言して締めくくった。◆