リアホナ 2006年7月号信仰の風景 16年越しで祝福を見いだす

    信仰の風景  16年越しで祝福を見いだす

    増田貴行兄弟が教会について間接的に知ったのは14歳のとき,改宗の16年前であった。当時,広島市に住む中学生だった増田兄弟は教会員の作家である飛鳥昭雄氏(ペンネーム)の著作に出会い,その独特な世界に強く惹かれる。著者が「末日聖徒イエス・キリスト教会」の会員であることがそこに記されていた。

    「小さいころから宗教観念はすでにあったんですね。神様は絶対どこかにいる,と。それがキリストであろうと仏様であろうと一向にかまわなかったんですけど。ただ,どれが正しいのか確信がなくて。」飛鳥氏の著作の影響もあり,いつかは教会に行ってみたいと増田少年は漠然と思っていた。しかし頭の中が宗教でいっぱいだったわけではないので,遊びやアルバイトや学業で人並みに学生時代は過ぎてゆき,社会に出て幾つかの職を経た後,製薬会社の営業として入社し宇都宮へ赴任した。そこで智美さんと出会い,茨城県牛久市への転勤を機に結婚することになる。結婚前に増田青年は智美さんにこう宣言したという。「自分の心の中はクリスチャンであるから,将来どこかの教会に行きたい」と。その“将来”がたった1年3か月先にやって来るとは智美さんは夢想だにしていなかった。

    結婚して当然,子供を望んだものの,この荒んだ世の中で子供をどう育てたらよいのか,と増田青年は思い悩んだ。

    「子供が生まれたら,教会で正しいことと正しくないことを教えてもらって,正しく育ってほしいと願いました。そのためには親が教会に行っていなければと。……でも妻はそんな日がいつか来るとは思っていなかった。ましてや収入を10分の1も取るのかと。それはもう泣きましたし,すごい抵抗勢力でした。」

    反対したのは奥さんだけではなく,奥さんの実家と自分の実家からも反対された。昨今,宗教にまつわるいざこざはよく耳にするので心配するのも無理はない。「10分の1もお金を取るなんておかしい,どこにそんな宗教団体があるんだ」と父親は地元広島のカトリック教会に電話をかけて寄付の額を問い合わせた。答えは「お志だけ」だったという。そこで増田青年はやむなく正面から説得にあたる。「インターネットの教会ウェブサイトは常々見ていたんですね。親に対して,お前の教会は悪いことをしてるんじゃないかといった疑問を全部論破するために,図書館にも通えばウェブも参考にさせてもらったんです。什分の一というのは聖書にも書いてあるし,クリスチャンとして基本に忠実なだけじゃないかと。ウェブを利用して一つ一つきちんと説明して,最後は,お前がいいって言うならそれでいい,と言われました。」ちなみにこの時点で増田青年と教会や宣教師との直接の接点は何もない。にもかかわらず,すでにご両親を説得していたのである。ときに2004年,晩秋のことだった。

    ウェブサイトから現実の教会へ

    「でも,最後は非常に悩んだんです。牛久ワードの住所もウェブサイトでどこにあるか分かっていたんです。そこに行けばいいんですけど,教会,宗教団体というのは行ったら出られないようなすごく怖いイメージがあるんですよ。ネットの中で教会に反対する言説も目についたので。でも彼らの態度が非常に紳士的ではないので,信用ならないなという思いはありました。ただ,実際教会に足を運ぶよりネットの方が気軽ではあったんですね。そこでせっせとメールを書いて,これは冷やかしではないという証拠に,最後に自分のIDと連絡先,携帯番号を載せて送信したのはいいんですけど,いざ電話が来たらこれまた怖いんですね。」伝道主任から2度電話があり,宣教師を交えて教会で話しませんか,との誘いに「ここまで来て退いたらなんの意味もない」と勇気を奮って牛久ワードへ足を運ぶ。2004年12月26日,増田青年の31歳の誕生日のことだった。ステンドグラスや十字架のある荘厳な教会堂を想像していたら「公民館みたい」でびっくりしたという。

    外国人と話すのも初めてという増田青年を,伝道主任の高西秀志兄弟と宣教師は温かく迎えてくれた。「向こうが強引ではなかったというのも非常によかったですし,常識的な話ができるのが分かって」安心したという。用意していった山ほどの質問に熱心に耳を傾け,細かいところまで調べて真摯に答える,その彼らの態度に増田青年はとても好感を抱いた。

    その1週間後,うれしい知らせが重なった。奥さんのおなかに新しい生命が宿っていると分かったのである。

    今や「鉄壁のガード」を取り去った増田青年は,誠実に連絡や訪問をしてくれる宣教師から問題なく福音を受け入れ,バプテスマの話が浮上してくる。そうなると心配なのは奥さんの方だった。

    「生活が苦しいのに十分の一も取られたらさらに苦しくなる,とんでもない」との奥さんの思いを監督に相談した増田兄弟は,とりあえず給料の半分を奥さんのものと見なし,残りの半分について什分の一を納める,という方法を提案される。戒めは「問答無用」だと思っていた増田兄弟に監督は,「まず教会に来ることが大切なんです」と説き聞かせた。

    3月26日,増田兄弟はバプテスマの日を迎える。「見に来るか? と彼女に言ったら,見たいと。それは何かあったらわたしを連れて帰ろうという意思があって来てくれたんですけど。」──しかし実は,おなかの小さな生命をはぐくみながら,智美姉妹は少しずつ信仰をも育てつつあったのである。妊娠2か月で流産の兆候が見られたとき,イエス・キリストを思いながら祈り,無事持ちこたえたこともあった。

    「バプテスマ会なのでたくさんの人が集まっているんです。で,すごく優しいんですよね。とってもあったかい気持ちになって,こういう人たちがいる中なら夫はこの教会に行っても大丈夫だなと感じたんです。」バプテスマの儀式にも聖く温かいものを感じ,「もう安心した」智美姉妹は,そのまま翌週から増田兄弟と一緒に教会に集い,姉妹宣教師からレッスンを受け始める。ただ改宗するかどうかの結論はモルモン書と聖書を読み終えるまで待ってほしいと伝えた。「この書物にわたしの納得のいかないことが書かれていないか知りたかったからです。」

    2005年5月末のある晴れた日だった。午前中に姉妹宣教師たちと自宅でのレッスンを終えた智美姉妹は,その午後,独りで再びモルモン書を開く。モルモンの言葉1章を読み進んでいるときだった。

    「感情とは関係なく涙があふれ出しました。なぜこんなところで泣くのだろうと思いました。このときわたしはモロナイ書10章3-5節に書かれていることをまさに体験していたのです。涙の水によって心が清められていると感じ,かたくなだった心が和らいで,バプテスマを受けようと思いました。」── 6月18日,智美姉妹は晴れて教会員となった。

    さて,什分の一の後日談である。6月に夫婦で全額を納め始めると,「すごい勢いで」祝福があった。突発的に給料が上がりはじめ,この1年で5回ほど上がったという。「その中には全社的に上がったのもあれば個人の昇進に伴うものもあり,また小さな病院から予想もしなかった大口契約が舞い込んで,上期の営業実績が急に1位になった報奨もありました。」「今はもう何の疑いもなく,もったいないという思いもなく普通に什分の一をお返しする気持ちです。そういうところまで自分たちの気持ちが成長しました。」

    余談だが,増田兄弟の改宗した牛久第二ワード(当時)は,奇遇にも飛鳥昭雄氏が集っているワードであった。増田兄弟は,自分を教会に導くきっかけとなった飛鳥氏本人と16年の時を経て会えたことに,感激もひとしおであったという。◆

    地域福祉部は,地元の指導者と教会員が霊的福利(自分自身を霊的に強めようとするあらゆること)と物質的福祉(貧しい人を助けることと自立すること)にかかわる原則を理解し,生活に取り入れることができるように支援します。このコーナーを通して,霊的な話や経験,また時にはアイデアや参考資料を皆さんに提供いたします。

    霊的福利の第一原則はイエス・キリストに対する信仰です。エジプトに売られたヨセフは信仰のすばらしい模範です。兄弟に憎まれ,奴隷として売られ,高い地位まであげられたと思うとまた忘れられた存在となりましたが,ヨセフはイエス・キリストが自分を愛し,ともにおられることを一度も忘れることがありませんでした。30歳になったヨセフは,パロの前に連れ出され,二つの夢を解き明かすように言われました。ヨセフは信仰を表し,こう答えました。「いいえ,わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう。」そのとおりになりました。ヨセフはパロの夢を解き明かし,7年間の飢饉に備えるためにエジプトのすべてを任されました。

    記録によると,「地は豊かに物を産した」とあります。皆さんも豊かに祝福されたことがありませんか。そのときヨセフはどうしましたか。人々は立派な建物や家を建てたわけでも,盛大な祭りや食事会をしたのでもありません。そのとき民がしたのは,食料を集め,またそれを貯蓄するための倉庫を建てることでした。まもなくやって来る飢饉に備えたのです。皆さんが豊かに祝福されるときはどうしているでしょうか。

    ヨセフの信仰,倹約,ビジョンの模範はわたしたちにとって自分自身が受けている祝福を思うときに励みになります。またその祝福を使って今日「飲み食いし,楽しみなさい」の精神に従うのではなく,常に霊的にも物質的にも自立し,いつでもいかなる形であっても,主に仕えることができるように将来に備えるべきと励ましています。◆