リアホナ2006年2月号信仰の風景 60年の時を隔てて主の教会へ導かれ

    信仰の風景 60年の時を隔てて主の教会へ導かれ

    太平洋戦争中,グラマンと互角に張り合った名機と謳われる海軍の“2式飛行艇”という飛行機がある。当時,その開発を陣頭指揮していたのが阿久根豊兄弟である。大正3年(1914),鹿児島に生まれた阿久根兄弟は,熊本の工兵隊で最初の兵役を終え,1936年に川西航空という軍需航空機メーカーに入社する。根っからの技術者であった阿久根兄弟は,入社1年半後には2式飛行艇の設計から試作までを任されていた。徹夜態勢での作業を重ね,4年目にやっと試験飛行にこぎつける。量産体制に入ってからも,北海道から鹿児島まで全国の航空隊を渡り歩いてレーダーと機関銃座の取り付け指揮に追われる。軍事機密だったので,食事にもトイレにも常に憲兵の護衛と監視が付いた。太平洋戦争が始まる直前に再び徴兵され満州へ向かうが,「阿久根がいないと飛行機ができない」との軍部からの要請により,3か月で呼び戻されるほどだった。

    戦争末期の1945年5月13日,阿久根兄弟のいた川西航空の工場は大空襲に見舞われる。実はその日に工場が爆撃されることは,アメリカからの事前通告により1週間から10日くらい前に分かっていた。工場の防空壕は,小山のように土を盛り上げた中にトンネルを掘り,竹で土留めをしたものだった。屈んで歩かなければならないほど天井は低いが,100人ほども収容できる大きな壕である。トンネル状なので入り口は2つある。同様の壕が工場内に幾つかあった。

    午前9時半,責任者として工員を防空壕に入れた阿久根兄弟は,人ですし詰めの壕の入り口に立って様子を見ていた。海の向こうから200機か300機かとも思われる大編隊が飛来するのを眺め,「もうこら最後やなあ」と思ううち,大きく迫ったB29から放たれた(恐らく)1トン爆弾が,阿久根兄弟のいた壕のすぐ脇に落ちる。(後から見ると壕から3メートルほどのところにまですり鉢状の爆発跡が迫っていた。)阿久根兄弟はその場に伏せ,逃げ遅れた同僚が折り重なるように阿久根兄弟の腿の上に伏せる。雷が30も同時に落ちたかのようなすさまじい音と爆風,砂ぼこりが荒れ狂い,トンネル状の防空壕を吹き抜けた。

    やがて砂ぼこりが収まりかけうっすらと視界が開けてきた。「おい,もう空いたから(壕の)中に入ろう」そう同僚に呼びかけるがうんともすんとも言わない。「あら,死んでるなあ,と思うとわたしの尻の方へ温かいもんが行く……ひょっとしてこれ自分もやられてるなあ,と。最初は痛くも痒くもないんです。」見ると足はもうくしゃくしゃだった。爆風で下から吹き上げられた破片が地に伏せた阿久根兄弟の大腿部を貫通し,その足の上の同僚の頭部をも貫いたのだった。

    壕の入り口の竹が燃えていたので,反対側の入り口へと這いずっていく。途中見てゆくと,その壕の中に動く者はない。続けて隣の壕を見回るも生存者はなく,そこに避難した何百という人々は皆死んでいた。爆風で飛ばされ木に引っかかっている死体もあった。

    やがて爆撃も下火となり米軍機は去っていった。阿久根兄弟が呆然と壕のわきに座り込み,空襲警報が解除になるのを待っていたそのときである。

    右前方に人の姿を見たように思う。死んだ母親の幻かとも思ったが,そうではなく,白い衣を着けた人の姿であった。ほんの数秒のことである。「わたしは,若いときでもキリスト教とかそんなことは全然知らなかったんですよ。何が何かさっぱり分からない。だから,何だろうなあ,何か不思議なものがあったなあ,って思って,もうずっと考えて。」

    幸いなこと,また不思議なことに,あのとき左大腿部を貫通した破片は骨も腱も神経もそれており,傷が癒えると歩行に何の支障もなかった。守られていた,と実感する。

    戦後,焼け野原で暮らす人々のため,無料でバラックの修理をして回ったという阿久根兄弟。その後は設計と木彫の技術を生かし,住宅建設業を営んできた。奥様は早くから教会に改宗していた。

    6年前の1999年に脳梗塞で倒れて以来,命が危ない状況に何度か陥り,その度にイエス様の夢を見る。「教会に入らなければ」との思いが次第に募った。2005年春にも肺炎で入院,一時はもう危ないと言われながらも持ち直す。守られている,との思いを新たにした。そしてその夏,阿久根兄弟はバプテスマの水をくぐる。バプテスマ当日,病後の91歳とは思えない気丈さで,早朝から教会堂の前に一人で待っていたという。

    生命の危機のときにはいつも主に守られてきた,と強く感じている阿久根兄弟は,「あとどれくらい生きられるか分からないけれど,命の続く限り精進していきたい」と語っている。◆