リアホナ 2006年8月号 信仰の風景 17世紀の詩人に寄せて福音を語る

    信仰の風景 17世紀の詩人に寄せて福音を語る

    吉中孝志兄弟は,広島大学大学院文学研究科で英文学を教える教授である。17世紀,特に清教徒革命の時代を研究テーマとする吉中兄弟には,ここ4,5年ほど時間を見つけてはこつこつと続けてきた仕事がある。それは1621年にイギリスの南ウェールズに生まれた詩人ヘンリー・ヴォーンの詩を翻訳することだった。ヴォーンの名は日本ではほとんど知られていないが,モンソン副管長がよく説教に引用する19世紀の詩人ウィリアム・ワーズワースにも影響を与えたと言われている。

    吉中兄弟は,ヴォーンの故郷ウェールズへ旅したとき,詩人が「瀑布」と題する詩に詠んだ滝がどこにあるのか探したことがある。吉中兄弟がそれと推定するのは,南ブレコン・ビーコン地方を流れるメルテ川にかかる「白き牧草地の滝」である。「愛しき流れ!愛しき土手よ,ここでよく/僕は腰をおろし……」(「瀑布」)と詠ったヴォーンが眺めたと思われる滝の落下点の直前は,川床の岩の形状のためか渦を巻いて水が逆流しており,それはあたかも死にあらがう人の,生への執着のように見える。

    まるで流れる、優柔不断なお供が立ち止まり

    まるで流れる、優柔不断なお供が立ち止まり

    ぐずぐずし、この切り立った場所を恐れているかのように

    ぐずぐずし、この切り立った場所を恐れているかのように

    誰もがゆく道

    誰もがゆく道

    ここで、ガラスのように透き通って、

    ここで、ガラスのように透き通って、

    すべての人が落ちて逝かねばならぬ

    すべての人が落ちて逝かねばならぬ

    しかし、終わりに向かってではなく

    しかし、終わりに向かってではなく

    この深い、岩石でできた墓に落ちることでより速い流れとなって、

    この深い、岩石でできた墓に落ちることでより速い流れとなって、

    もっと輝かしく、美しいさらに長い旅路につくため甦るのだ。

    もっと輝かしく、美しいさらに長い旅路につくため甦るのだ。

    (「瀑布」)

    (「瀑布」)

    末日聖徒には,ヴォーンが故郷の滝の風景に,死と復活の似姿を見ていることが容易に分かるだろう。350年の昔に生き,英国国教会の信徒であったヴォーンだが,「ぼく自身の目では,末日聖徒の教えに合致するものをたくさん持っている,そういう詩人だと思います」と吉中兄弟は言う。

    吉中兄弟が初めて宣教師と出会ったのは17歳,高校2年のときだった。人生の意義について深く悩み,今で言う不登校のように学校もさぼりがちの「暗~い」少年だったという。「当時は今と違って,そういう重厚なことを考えるのがカッコいい時代だったんですね。(笑)」

    あるとき,学校をさぼって映画を見ようと広島平和記念公園を歩いていた吉中少年は,二人連れの宣教師に呼び止められ,ビラを受け取った。いったん別れてその日の夕方,再び彼らと落ち合う。教会で「人生の目的」というスライドを見せられるも「正直まだピンと来なかったです。」ただ,すべての時間を奉仕にささげる宣教師という人たちがいることは驚きだった。そうして3年にわたる長い宣教師との付き合いが始まる。──「(改宗まで)3年かかった理由は,今でもそうですけどかなり頭でっかちで,理屈でどうしても考えるからです。説明がつかないと納得できないし。(でも,)宣教師が転任して代わって行くんですけど,何か離れられなかったんですよね,ずっとレッスンを受けていて。」

    そして20歳の年,一人の日本人宣教師が赴任して来る。「その宣教師がほんとうに親身になってぼくのために断食をして,福音を理解できるように,と祈ってくれている。それが分かったときに,もっと真剣に祈らなきゃいけないな,と。」

    そして宣教師たちと吉中兄弟の3人で,教会の一室で祈ることになった。「それまでやっぱり頭で考えてましたから納得いかないことがいっぱいあったんですけど,……ある意味で苦しかったんです。福音を知らない方がよかったとさえ思いました。自分では納得いかない,そのせいで悩まなければいけないわけですから。──どうにもこうにも苦しくて,そのときはもう神様,助けてください,という祈りだったんです。」

    「そうして祈っているときに……ああ,これが聖霊なんだ,という気持ちを強く感じたんですね。それで……」吉中兄弟は期せずして少し目を潤ませ,絶句し,そして照れ隠しのように付け加える。「──この話をするのは久しぶりなんですけどね。」

    末日聖徒であれば知っているその御霊の証,それが吉中兄弟にとっての英文学・キリスト教文学研究を,ともすれば陥りがちな表面的な知識の集積とは別の,血肉あるものにしている。

    15世紀から17世紀というルネッサンスの時代は,例えばジョセフ・スミスが示現を見たと言うと疑ってかかるようないわゆる近代・現代の精神よりも,はるかに信仰深い時代,「神様が近くにいる時代」ではなかったか,と吉中兄弟は考える。「モルモン書にありますけどコロンブスが霊感を受けてアメリカ大陸を発見する,それと同じように,詩人にしろ劇作家にしろ宗教的な霊感みたいなもの,神様からの御霊を受けて書いているようなところがあります。『失楽園』を書いたジョン・ミルトンという作家は,夜中に自分は霊感を受けて,それを筆写して詩を書いたというようなことを言ってますし,霊的なものを非常に身近に感じられる時代だったんだと思うんです。例えばヴォーンの詩の中の一節を読んでいて,この詩人は永遠の真理みたいなものをこのときに分かっていたんだと共感できるときがあります。末日聖徒でもなく預言者でもないけれども,それでもやっぱり信仰があれば,全部じゃないけど一部の真理なり聖霊みたいなものは感じられるんだなあと分かります。」

    17世紀の古い英語で書かれた詩のニュアンスを解釈するところまで含めれば20年以上の研究の結晶であるこれらヴォーンの翻訳詩が陽の目を見ることになったのは,昨年から始まった広島大学の出版事業のおかげであった。旧国立大学が作った本なので印税(利益)は一切ない。その帯に書かれているように確かに「本邦初訳」ではある。が,吉中兄弟はこう言って笑う。「(原稿出版を一般の)出版社に交渉しても総スカンでしたね。宗教を扱ったものは売れない,ましてや詩だったら絶対売れない(笑)」今どき,350年前の宗教詩を翻訳しようという企ては,いわば時流にまったく逆らっている。しかしそもそも17世紀にあっても,ヴォーンという詩人自体が時代の支配的価値観に背を向けた人だったのである。

    繁栄する世界が、ある日僕に見せてくれた、

    繁栄する世界が、ある日僕に見せてくれた、

    その豪華な商業中心地ときらびやかな店々とを。

    その豪華な商業中心地ときらびやかな店々とを。

    金持ちたちは真剣そうで、ぜんぶお買い上げだった、

    金持ちたちは真剣そうで、ぜんぶお買い上げだった、

    プライドと欲望を満足させる最新流行の品々を。

    プライドと欲望を満足させる最新流行の品々を。

    ……その時に、……

    ……その時に、……

    顔を赤らめながら、そして慎ましい衣服に身を包み、

    顔を赤らめながら、そして慎ましい衣服に身を包み、

    欺瞞を知らぬ、飾り気のない眼差しで、

    欺瞞を知らぬ、飾り気のない眼差しで、

    羊を飼うシリアの乙女がやって来た。

    羊を飼うシリアの乙女がやって来た。

    その時、ひとりが叫んだ、私たちは恥ずかしい。

    その時、ひとりが叫んだ、私たちは恥ずかしい。

    みんな認める、彼女が一番美しい服を着ているからだ。

    みんな認める、彼女が一番美しい服を着ているからだ。

    (「装飾」)

    (「装飾」)

    ヴォーンという人は,過激で急進的な清教徒革命と初期資本主義が台頭する当時にあって,伝統を重んじ故郷に引きこもっているような,思想的にも政治宗教的にもいわば「負け組」の側だった,と吉中兄弟は語る。しかし今読み返すと,3世紀半も前に書かれた詩編に,拝金主義が横行し道徳標準が崩壊する現代日本の世相が鮮やかに透けて見えてくる。

    そして,「世にあって世のものとならず」歩む末日聖徒の生き方が,吉中兄弟の目には350年前のヘンリー・ヴォーンの生き方と二重映しになるのである。講義では,ヴォーンの詩を解説しながら吉中兄弟が学生たちに語りかける。例えば,「クリスマス・イブというと,恋人と過ごす日だと考えているわが国の若者たちに」──

    この日の輝きは、

    この日の輝きは、

    音楽や仮面劇や見世物のおかげではありません、

    音楽や仮面劇や見世物のおかげではありません、

    立派な家具調度や食器類のおかげでもありません。

    立派な家具調度や食器類のおかげでもありません。

    飼い葉桶のみすぼらしい境遇のおかげなのです。

    飼い葉桶のみすぼらしい境遇のおかげなのです。

    あなたがたがたくさん持っているものを、足らない人たちのために、

    あなたがたがたくさん持っているものを、足らない人たちのために、

    外へ投げ出しなさい、そしてあなたがたの荷を軽くするのです。

    外へ投げ出しなさい、そしてあなたがたの荷を軽くするのです。

    ……目立たない服を小奇麗に着なさいよ、

    ……目立たない服を小奇麗に着なさいよ、

    そうすればあなたがたは、自分たちのクリスマスを

    そうすればあなたがたは、自分たちのクリスマスを

    正しく過ごしているのです。

    正しく過ごしているのです。

    (「本当のクリスマス」)

    (「本当のクリスマス」)

    「売れること,成功することを追い求める人たちに。忙しくしていればいるほど自分の価値が高まっているかのように錯覚している人たちに」──

    ひとは自分に帰るところがあるのを知っている。

    ひとは自分に帰るところがあるのを知っている。

    しかし、何処にあるかはよくわかっていない。

    しかし、何処にあるかはよくわかっていない。

    ひとは言う、あんまり遠いから、どうやって帰るのか忘れてしまった、と。

    ひとは言う、あんまり遠いから、どうやって帰るのか忘れてしまった、と。

    ひとは、ありとあらゆる扉を叩き、迷い、彷徨う。

    ひとは、ありとあらゆる扉を叩き、迷い、彷徨う。

    磁石は、創造主がお与えになった秘められた感覚で、

    磁石は、創造主がお与えになった秘められた感覚で、

    暗い夜にも、帰るべき所を指し示す。

    暗い夜にも、帰るべき所を指し示す。

    そんな石ほどの知恵もひとにはない。

    そんな石ほどの知恵もひとにはない。

    ひとは、機織機の杼だ。杼は横糸を繰り出しながら、縦糸の間を

    ひとは、機織機の杼だ。杼は横糸を繰り出しながら、縦糸の間を

    上に、下に、何かを求めて、右往左往しつつ進んでゆく。

    上に、下に、何かを求めて、右往左往しつつ進んでゆく。

    (「ひと」)

    (「ひと」)

    宗教詩を読み解くためにはキリスト教の知識が不可欠である。吉中兄弟の講義において聖書は必携であり,参照するためしばしば聖句を引用する。「モルモン書の聖句を引用したくなるときもあります(笑)。でもB Y Uじゃないのでさすがにそれはできないんですけど。」吉中教授の解説でヴォーンの詩は現代によみがえり,学生たちは目を輝かす。それを通じて背景となるクリスチャンの価値観について分かち合うとき,「教壇の上からの,ぼくなりの伝道になってるのかなあ,それこそ牧師や神父さんじゃないかぎり説教して暮らすってことはできないでしょうから。」──こう吉中兄弟は自らの仕事の醍醐味を語るのである。◆