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今日の言葉

怒りを遠ざけ、とげとげしい言葉や人を傷つけるようなことを言う誘惑に駆られても、そのようなことは言わないという決断をその度に下さなければなりません。

トーマス・S・モンソン大管長 2009年10月

モルモン書から

求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。捜しなさい。そうすれば、見いだすであろう。たたきなさい。そうすれば、開かれるであろう。すべて求める者は与えられ、捜す者は見いだし、たたく者には開かれるからである。

モルモン書 第3ニーファイ14:7-8

伝道 > 分かち合う資料 > ジョン・W・ウェルチ「重んじられるべき書物」聖徒の道1984年4月号、11
ジョン・W・ウェルチ「重んじられるべき書物」聖徒の道1984年4月号、11

学者たちに,改宗とまでは行かなくとも、モルモン書について納得してもらえるのは明らかです。  

長年にわたりモルモン書は,私に重要な事柄をいろいろと教えてくれました。私は,モルモン書には格別の敬意を払うべきだと思います。  

モルモン書は,私にとって実に驚嘆すべき書物です。学べば学ぶほど,正確さや一貫性,妥当性,永続性,洞察や意義の深さにおいて,その感を強くします。  

超自然的な形で保存された書物だから、そのはずだというのではなく,優れた文学作品は、どれも読み手に並々ならぬ畏敬(いけい)の念を抱かせるという意味で,この書物はなお驚嘆すべきものです。そう考えると,正確な尊い記録として,私がモルモン書に寄せる崇敬(すうけい)の念は、いくら述べても述べ尽くすことはできません。 

 

私はずっと以前からモルモン書の価値を知り,大切に思ってきました。しかし,この書物が、ことさらに重んじられて当然であると感じ始めたのは,この書がそれ自体,学者たちへの証明であることに気づき始めてからでした。モルモン書は知的な観点から、称賛を受けているとはっきり言うことができます。内容から見て,一般的標準のどれに照らしても、古今の名著の一つとされるに十分です。それを裏付けるのは、ここ数年間に次々と発見された、宗教書に対する学者たちのある種の固定観念を、根本的に変えた古代の宗教文書を初めとするさまざまな資料です。  

知識人にこの資料をモルモン書と関連づけて示すことには,おのずから問題があります。聖霊の力に頼ろうとする人は、ほとんどいないと思うからです。しかし、その中の大勢がたとえ改宗しないとしても,モルモン書について納得したなら,意義は大きいと思うのです。また,証というものは学問的な理論や結論の所産では決してありませんが,知識が力となって霊的な感性を育む(はぐく)人々はいます。 

私たちの大半は,すでにモルモン書に人々を改宗させる力があることを経験しています。その説得力について,少し考えてみてください。モルモン書は自分の「情」に力強く働きかけるばかりか、「知」に対しても雄弁に語っていると思います。モルモン書は,思慮深い人々に,それが真剣に受け止められるべき書であることを納得させるだけの、はかり知れない力を持っているのです。そのことを証明するのに,例をいくつかあげてみようと思います。  

モーサヤ5:10-12に見られる交差配列の例

Aまた誰でもみな喜んでキリストの御名を引き受けないものは、

 Bほかの名で呼ばれる

  C従って、かれは神のに居(お)るのである。

   D私はお前たちが、キリストの御名はすなわち……忘れないように望む。

    E決してこの名前は消されるはずがないから、

     F罪悪を犯すのでなけれあば

     F罪を犯して……用心をせよ。

    Eその心からの名前が消されないように

   Dまた私は……忘れないように望む。

  Cお前たちが神のに居らず……

 Bお前たちを招き((呼び))たもう声……を聞いて

Aお前たちを呼びたもう名前

(訳注日本語訳では文章の句が前後しています。英訳のモルモン経を参照してください)

ドイツで,レーゲンスブルク大学の著名な教授の集中講義に出席した際,マタイ伝とマルコ伝の交差配列法が、テーマに取りあげられたことがありました。交差配列法というのは、聖書によく用いられている古代の文学上の技法のことです。文の初めの部分が最後の部分と対応し,2番目が最後から2番目の部分と対応し,そのようして中心に及ぶように語句が配置されているのです。教授は講義の中で、交差配列法の存在が、特にマタイ伝にあっては、西洋の思考よりは近東のものである証拠となっているについて、何度か熱を込めて語りました。講義のすぐあとで、わたしは研究室にその人に訪ねました。それは、モルモン書から見つけ出した4カ所の複雑な交差配列法の例を見てもらうためでした。(モーサヤ3:18-19;5:10-12;アルマ36;ニーファイ第一書からの例です)モルモン書の中の、古代の近東の思想を証拠立てる、これらの文に説明はほとんど不要であったため、面会は短時間でした。教授は、自身で証拠をあげて解いた結論を動かすはずはなく、当惑した様子を隠そうとせずに、言葉も少なく納得してくれました。

2番目の人はさらに広く名の知られた、1960年代のカトリック神学者で、彼もマタイ伝の交差配列法について著作を出していました。オーストリアの修道院に住むイエズス会の司祭でした。私はモルモン書研究において、彼は特に一致する点があったので、話し合いましょうという彼からの招待を受けた時には、本当に感謝し、早速彼を訪ねました。私は彼にモルモン書の背景について、いろいろと話すことができました。彼はモルモン書について以前に聞いたり、読んだりしていましたが、そう深く考えていませんでした。彼の専門はマタイによる福音書が主で、マタイ伝が非常に洗練された高度に文学的な記録で、単なる叙述ではなく、意図的に書かれた複雑な構成の書であると論証しています。その証拠のひとつが、マタイ伝の中の4倍および8倍対応構造の存在です。その最も顕著のひとつは、マタイ伝5章3節から10節の八福の教えに見られます。ところがモルモン書にも4部および8部対応構造が用いられていて、私がモーサヤ書のベニヤミン王の言葉を数カ所と、アルマ書34章18-25節のはっきりした箇所を示して見せると、彼はそれまでモルモン書を軽視していた態度をたちまち変えました。話し合いが終わるころには、学究生活60年を越す間に多くのことを見てきたであろう、この学識豊かな人物が、賛意を込め、真剣にうなずいてくれたのです。彼のまなざしに、モルモン書に対する関心を感じたことを、今でも覚えています。彼は最後に、「あなたはここから活力をえておられますね。一生の仕事です」と言ってくださいました。 

もうひとつ、ローマの法王聖書研究所で、初期キリスト教史を調べていた博士号を持つ研究生との貴重な出会いがあります。知る限りでは、その聡明な学徒は、膨大な量のバチカンの書物を自由に調べる特権にあずかっていました。特にモルモン書を、また中でも儀式と歴史の書を検討しようという会合があった際に、共通の知人が私たちを引き合わせてくれたのです。一例として、私たちはリーハイの動向を示す記述を、当時の国際紛争に関連して討論し合いました。イスラエルの統治者は、宿敵バビロンに対してエジプトと同盟を結んでおり、エレミヤがこの選択を痛烈に批判していましたが、リーハイの統治批判はエレミヤほど否定的ではなかったようです。バビロンの同盟国のひとつがフェニキアのシドンでしたが、シドンの双子都市テュロス(ツロ)はエジプトと手を結んでいました。モルモン書の民はシドンの名をよく使っています。サイドンという名の町がありますし,サイドン川やギドギドーナという人も出てきます。このギドギドーナは,ブリガム・ヤング大学のヒュー・ニブレー教授が指摘するように,シドンのエジプト名です。ところがテユロス(ツロ)の名はモルモン書にまったく出てきません。旧約聖書ではこのふたつの名は常に対をなしていて,片方だけということはめったにないというのです。モルモン書でテユロスよりもシドンが好まれるのは,リーハイが知っていた当時の世界情勢に合致します。また,リーハイは外国都市と密接なつながりを持つ商人で,他の都市国家に滞在する外国人を保護した「チュワ」、すなわち友好協約によって、繁栄と安全を保証されていたと見るニブレー兄弟の推論を支持する形にもなります。リーハイはエジプト人を知ってはいましたが,それでも自国が危険な道へ向かうのを見て,エレミヤと同様にイスラエル,エジプト間の同盟を危惧(きぐ)したというのは自然です。(「モルモン書へのアプローチ」p.52参照) 

その優れた学者と討論したい事項はほかにたくさんありましたが,私は初め,難しいミーティングになりそうで心配でした。彼はモルモン書を何章かすでに読んでいて,初めて読んだにしては内容をかなりよく理解しているにもかかわらず,モルモン書を内容の無いものと結論づけていたのです。私たちは彼の見た箇所をもう一度見てみました。また,角度を変えて何度も読み返しました。何時間もじっくり話し合ったあとで,彼はモルモン書が決して空疎なものでないことを,心から認めてくれました。彼は,「あなたの本は,本腰を入れてかからなければなりませんね」と言っていました。 

私はブリガム・ヤング大学4年生のときに,合衆国の元大統領にちなんで名づけられた米国ウッドロー・ウィルソン奨学基金に応募しました。この審査では30分の個人面接が重要視されており,そこで3名の試験官からいろいろと質問されるのです。私の面接は半ばまで具合良くいきましたが,急にひとりの試験官が話題を変えました。提出書類の中にブリガム・ヤング大学出版局から出したモルモン書についての論文があり,彼はそれをもとにして質問したのです。試験官は挑戦的に,「モルモン書は聖書の焼き直しではないのですか」と私に聞きました。 

それからの5分間は緊張しました。私はモルモン書が聖書と明確に異なっている点をいくつかあげようと思いました。たとえば両方の書物に出てくる山上の垂訓ですが,欽定訳聖書には「兄弟に対して(故なく〉怒る者は,だれでも裁判を受けねばならない」(欽定訳マタイ5:22)とあります。かっこの言葉は,マタイが書いたずっとあとになって加筆されたものと見られ,最初の新約聖書の原稿にはその部分がありませんし,モルモン書にもありません。(III二一ファイ12:22参照)私はまた,モルモン書に載っているイザヤ書からの引用文と聖書のその言葉との相違点を指摘し,モルモン書と聖書に登場しない、ユダヤ独特の比喩(ひゆ)描写の重要な類似点(特に生命の木とヨセフについて)をあげ,最後にモルモン書の預言者たちが独自に書いた詩を取りあげました。 

私の返答で納得してもらえたと思うのには,少なくともふたつ理由があります。ほかのふたりの教授のうちのひとりが,しまいに「私には盗作とは思えませんなあ。あなたはこれまでモルモン書を読まれたことがおありですか」と辛(しん)らつな言い方で質問をやめるようにうながしたことと,その審査に通って奨学金が受けられたことです。私は大学卒業後,英国のオックスフォード大学でギリシャ哲学の研究を続けましたが,ここでもいろいろな機会を見つけてモルモン書を大勢の学者に紹介しました。ある晩、数人の新約聖書学者が,古代ギリシャの知的概念が初期のキリスト教思想にどう影響しているかという討論を始めました。話は進み,やがて初期ギリシャ哲学の発展に相反するものが寄与した役割に及びました。例をあげると,紀元前6世紀のヘラクレイトスという哲学者は,宇宙の相反するものの問題に深い関心を持ち,それらの相反する現象を越えたところに調和を見ようとしました。私はそれについて,リーハイの「すべての物事には必ずその反対のものがなければならぬからである。……すべての物事はみな合して一つとならなければならない」(II二一ファイ2:11)という教えのことを話しました。参加者たちの反応は好意的でした。この文章について,特に相反するものに関するリーハイの単なる具象以上の精神的思想の面から,もっと深く知りたいと関心を寄せる人が何人かいました。 

その後,私はノースカロライナ州のデューク大学に通い,いわゆる偽書として知られるイエスの時代のユダヤ人やキリスト教徒の書き物について研究する大学院セミナーに参加しました。私はセミナーの席で折々モルモン書について話しましたが,同席者は私の意見をまじめに取りあげませんでした。セミナーの終わり近くになると,専門分野では高名なその教授から,特に難解で知っている人も少ない「ゾシマスの話」に取り組むようにという提案が出ました。「ゾシマスの話」には,紀元前600年頃,エルサレムがバビロニヤに滅ぼされる前に,神に導かれてある正しい家族がエルサレムを去ったこと,彼らは祝福の地へ逃れ,そこで爪を使って文字が書ける軟らかい金属板に記録をつづったことが書かれています。話では,ゾシマスは夢の中でその民を訪れることを許されます。彼は荒野を旅し,厚い暗やみの霧を抜け,海を渡って,清い実をならせ、蜜のように甘い水を流す1本の木のところからその地へたどり着きました。(1二一ファイ8:10-12;11:25に同様の叙述があります) 

この近東の文書を専門的な角度から少し検討したあとで,教授は学生たちに質問しました。「では,ゾシマスの話はどう解釈したらよいでしょうか。これはユダヤ人とキリスト教徒とどちらのものだと思いますか。」出席者からほとんど発言はなく,分類できないことになりそうな気配でした。この話は,それまで見てきたどの文書にも似ていなかったからです。私はもうそれ以上待ちきれなくなって,リーハイとその家族について,またさらにモルモン書について,グループの人々に話をしました。私が話し終えると,部屋はいっそう静まりかえりました。すると教授が「皆さん,このモルモン書についてもう少し言いたいことがあります」と述べ,交差法の存在やアルマ書13章のメルキゼデクの記述や,そのほか私と以前個人的に話し合ったいくつかのことを説明し,「さて,このモルモン書はどう見たらよいでしょうか」と質問したのです。メンバーの中には,つまるところ、ジョセフ・スミスをユダヤ人律法学者の生まれ変わりとすれば一番手っ取り早いと言う人たちもいるにはいましたが,私にとってうれしかったのは,それまでモルモン書に対して一番批判的な態度をとっていた学生が,もっと知りたいがどうしたらよいかと聞いてきたことでした。 

私の経験したこれらのことは,どんな意義があるのでしょうか。個々の出来事をとればとりたててすごい経験ではありません。人々がモルモン書を真剣に読むようになるときには,大勢の人が似たような体験をしているのです。一つ一つは取るに足らなくとも,その経験が合わさってモルモン書に対する大きな証となります。 

モルモン教徒でない知識人が,モルモン書を気軽に無視するのはおそらく簡単でしょう。教育を受ければ受けるほど,この書物を見くびる傾向はあります。金版,天使,少年預言者など,利発な学者には超自然界の物語のように聞こえます。見たところ平易な文体で,古代ヘブライの聖典との関係が明白なため,無意味であり,単純なごまかしだという声を聞きもします。しかし,よくよく検討すれば,これは決して無意味どころか,愚かなのはかえって傍観者の方です。モルモン書の傍観者が犯すひとつの大きな誤ちは,調べもせず理解もしないのに,ものわかりよく判断を下してしまうことです。 

大学院セミナーでの経験や,オックスフォードの学者たち,審査員や研究員,神学者,教授といった人々との出会いは,そのこととどんな関係があるのでしょうか。ごく簡単に言えば,それはこのようなことです。私の経験からして,モルモン書は見事な主の道具です。また,モルモン書が,それ自体イエス・キリストの福音について人々の敬意を集めるのは,見ていて驚くほどです。ちょうど,家造りらに捨てられたにもかかわらず、「隅のかしら石」となったあの石のようです。(使徒4:11;詩篇118:22参照)かしら石であるモルモン書は,他の点では信仰深い大勢の家造りらによって,しばしば無頓着に拒否されてきました。しかし、往々にして真理とはそのようなもので,賢い人の知恵は主の前に滅びます。(イザヤ29:14参照)そしてそのとき,確信と崇敬が,疑念にとって代わるのです。

私はモルモン書が、その正当性を証拠立てるものとして不足していると思ったことはありません。この書物は読み手の心に,なるほどいろいろな疑問を起こすことでしょう。しかし私は,そうした疑問の行きつく答えによって,失望ではなく報いを得ています。答えが見つかれば確信がわき,確信できれば敬意が生じます。敬う気持ちを持てば,証への道も時には開かれます。 

モルモン書を尊重し,また人々をもそのように助けることは大切なことです。モルモン書は神のみ言葉であり,この書物を持つ人々はこの書物によって裁かれます。ためになる教えや戒めや正しい知識を、人に与える神聖な書物なのです。すべての人々が疑心を抱かずにモルモン書を受け,謙遜な祈りによって、それが真実だという聖霊の証を受け入れるのは理想です。しかし,そこまで行かなくとも,この書物が多くの人に重んじられているのは素晴らしいことです。

私はこの書物を尊重することで,自分が主に近づいたことを知りました。そのつながりが深くなって,この貴重な記録に対する愛着や愛情が深まり,感謝しています。また,ありがたいことに,この書に対する崇敬の心が増すにつれ,私自身も成長しているのです。(ジョン・W・ウェルチ:弁護士,ブリガム・ヤング大学」・ルーベン・クラーク・ジュニア法学大学院で教鞭をとっている)

 
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